人は錬磨による

日本の曹洞宗の開祖、道元禅師は、「我が身愚鈍なればとて卑下することなかれ」と説いています。

意味は、自分自身の能力が愚鈍であるから駄目であると、自分自身を卑下してはいけないという。どんなに愚鈍であっても修行すれば必ず仏道を得ることができると言っています。

努力するのと、怠けることによって遅速が生ずるだけである。努力するか、怠けるかを定めるのは、志があるかどうかで定まる。その志を立てるのは無常を切に思うからであるという。 「今ここ」 無心に取り組む意欲が大切である。

愚鈍な私は、いつもこの言葉を思って、日々稽古しています。つくづく禅も太極拳も書もまったく同じ事だと思う。

つまり何事も道を実現させるには不断の修行が必要だということです。

今日坐禅をしたから明日はやめる。今週やったから来週はやめるというのでは道を得ることはできない。

太極拳も書も、うまいへたは関係ありません。器用な人が演武したり字を書くよりも、不器用な人が日々一生懸命に努力して、演武や字を書いたりした方が、とても味わいがあり、その人の風格がにじみ出て人に感動を与えます。

不断に絶えず行じてゆく時、必ずそれは達成できる。

時間をかけるということは恐ろしい。どんなものでも時間をかけねばならない。

人間の身体は霊妙なはたらきを持つ。意識によって身心一如となる時、身体もまた光明を放つに至る。

愚鈍な私は理屈ではなく、何事も日々身をもって実践して行きたい。

 

 

 

 

自彊不息(じきょうやまず)

皆さん、連休は如何お過ごしですか。コロナの感染拡大を防止するため、ステイホームで過ごしていることと思いますが、こういう時こそ、自分で稽古する習慣を身に付けてください。

天の働きは健やかで一日も止まない。それに倣って「自彊して息まず」、自ら強く励み、努めて止まないことが大切です。

自分を活かすのは何といっても自分自身であり、他の誰かが助けてくれたとしても、それはきっかけにしかならない。

普段の練習会が出来ないからといって稽古を怠っていれば、せっかく学んだことも忘れてしまいます。

ゆえに、自分で出来る範囲で、この機会に稽古する習慣を身につけてください。継続して癖付けをしていくことによって、太極拳を生活の一部にすることができる絶好のチャンスにしてください。

2017.3 王西安大師

 

天行は健なり。君子もって自彊して息まず。

「易経」乾為天より引用

稽古における気づき

姿勢ですが、前後左右に傾くことのないように、首筋を立てて、股関節をゆるめておくことが大切です。(上虚下実)

両足の重心移動をはっきりとさせ、股関節をゆるめることで発生する、地面からの反発する力を利用して動く。上手く表現できませんが、要は自分の力で引っぱろうとしないことです。

各動作の終わりは姿勢を正し、全身の関節や筋肉をゆるめる様にしながら静かに丹田に気を沈めます。(太極の気象にかえる)

すぐに次の動作に急がず、あわてず、落ち着くまで待ちます。この時は、やはり首筋を立て、しっかり立ちながら、ゆるめるべきところをゆるめます。

この「太極の気象」というのが、他の拳法にはない、太極拳の特徴にもなります。

次に眼法ですが、動作そのものに成り切って動くために、眼の位置が大切です。

集中力にもつながるのでしょうが、引くときには本当に引くつもりで、押すときには、本当に押すつもりになって押すのです。そこに集中します。これを「意を用いる」と言います。眼は自ずとその方向にあります。右に押しているのに、顔は左を向いていたら、それこそよそ見です。

各動作、形にはそれ自体、用法としての意味がありますので、そこがわかると、自然に形や眼法、意の用い方が正しくなります。只、形をなぞるのではなく、その内容を理解して動くと良い稽古になると思います。

最後に套路についてですが、普段の稽古においては新架、老架、混元のどれを稽古しても結構です。自分の年齢や体力に応じて、無理をしないで稽古してください。

套路をいくつも覚えるよりも、一つの套路を繰り返し鍛錬して、虚実、開合、太極の気象、意念、放松等を身体に浸透させていくことが大切だと思います。

先人たちが脈々と残してきた形の中に脈打っているもの、陰陽の変化であり、動静のバランスであり、絶対的というべき「太極理論」を身をもって実践していくことが核心だと思います。

お互いに精進していきましょう。今ここ 無功徳常精進

 

 

套路における要求

・各動作の点検をしながら稽古する。(たとえば肘・肩にこわばりがないか。手と足の協調が保たれているか。肩や胸にりきみがないかなど、自分の悪い癖を修正する。)

・意の力をもって動作を導く。(たとえば相手がいるつもりで、指先に意識を集中し、自然に体が動くような状態。技を決めた常態のときに腰が引けていないか、足は円とうになっているか。眼法など)

・足のつけ根(くわ)を抜く、つまり股関節をゆるめ、落とす力により動作を連動させる。

・首すじを伸ばし、くわを抜き膝に体重をかけることにより、丹田に気が落ち、非常に動きに重たさを感じ、自分自身も充実感を感じる。ただし、くわを抜き、動作を導く場合、かなり足腰を鍛えておかないと最初はきついと思います。

自分自身のレベルに応じて課題を見つけて、日頃から稽古してください。

平成3年お便り「敬心」より掲載

何の為に太極拳を学ぶのか

あなたならこの問いにどう答えますか?各自いろいろな目的があって良いと思います。

私は、太極拳は修行の道だと思っています。強くなりたいということもありますが、それよりも太極拳を取り組むことそのものが、人生における修行だと考えます。

敬いの心がなければ太極拳を学ぶことができません。これは我欲ばかり先に立ってしまったのでは、自然な動きなどできないということです。

何事も我を出せば我におぼれてしまいます。いちばんいいのは、無心になるということです。

理にかなった技の仕組みのことを、古来、武道では理合(りあい)と呼びます。動きが理合にかなっていれば、おのずと個々の技に対するこだわりは消えていきます。技が消えることによって、初めて相手のどんな動きにも臨機応変に対処することができます。(五陰五陽)

ここに至ったとき、太極拳の武術としての真価が初めて発揮されるのです。

また、武術(太極拳)というものは、日常生活から逸脱した特別なことであってはいけません。

ただ道を歩いているにしろ、そのときの心のあり方、姿勢の保ち方、機を見て敏なる感覚などが、すべて理合の表れであり、またそう努めることが修行であるわけである。

理合にのっとれば、そこに調和(中庸)が生まれてきます。姿勢、身のこなし、人との接し方、言葉使い、そうしたあらゆるものに調和が宿ります。強い弱いでなく。自己が常に最善の状態でいられるということ、それが武術(太極拳)です。

 

その場、その場において最善であることが修行です。ですから、太極拳の修行に終わりなく、一生涯、向上心を持ち続けることができるのです。

平成3年7月お便り「敬心」より掲載

太極拳は悟りへの道

大自然や大宇宙の法則を科学や哲学、宗教とするならば、武術の神髄もまた大自然の法則を技法にあらわしたものである。真正な武術はすなわち宗教・哲学・科学などと帰するところ同じものである。

もしも口でいうように真実の道にかなったものならば、修行年数がふえるにつれて技術と共に精神も成長していくはずである。

長きにわたって修行を続けている者が、武術や芸術を名声・財・権力などを求めるための手段にしているとしたら、すでに道を口に出す資格はない。

道教でいう道とは「己を大自然に合わせ陰陽の調和をたもち、四季や自然のリズムと同調した生活を送り、大自然を愛し大自然と一体となって生涯を送り、長寿をまっとうして自然死をとげる」ことである。

少なくても理論や形式だけで実践のない教えや新興宗教よりも、静動合致の武術の方が完全なものといえる。

「悟り」とは、「限りなく素直な心(敬いの心)になること」であるとともに、「その素直な心を決して意識しないで行動できること」である。

初心にかえり日々研鑽すべし

平成3年7月のお便り「敬心」より掲載

心が体を動かす

戦後、東京音羽の護国寺で心身統一道を説いておられた中村天風先生の講演のなかで「心と体という、この命を形成しているものの関係は、ちょうど一筋の川の流れのごとく、切れず、離れない。そうして、つねにこの川の流れの川上は心で、川下は肉体だということに気がついたならば、心というものはどんな場合であろうとも、積極的であらしめなければならんのは当然だ。」という考えは、まさに太極拳の根本だと思う。

心を積極的に使うということは、「気を出す」ことである。

リラックスしてありのままの状態、心身が統一され、すべてを天地に任せきった状態になっていれば、気はほとばしり出ます。

太極拳とは、気をもって動作を導き、天地の気に合するものでなければならない。

 

平成3年2月のお便り「敬心」より掲載

稽古について

会員の多くは普段の練習(いわゆる一人稽古)を続けることに難しさを感じていると思われる。どうしたら、単調な形(套路)の稽古を毎日のように続けられるか。

まず、太極拳を学ぶ目的を明確にすることである。目的は各自色々とあってよい。一般的に武術界では、一に心身の鍛錬、二に芸術性、三に護身術と言われている。

それから、太極拳のもつ魅力を自分で掘り起こしてみよう。太極拳のことを、もっとよく知る努力も必要であり、いかに優れているかを理解しておく。その上で、稽古の仕方について触れる。

初めは、とにかく形を正しく覚えることである。形を覚える段階では、喜びもあるが、第二層における反復練習が中々続かない。それはどうしてか。単調で、手応えがないからである。

では、どういう点に気をつけて稽古すれば良いか。大切なことは、自分勝手なイメージをもって稽古しないことである。

つまり、指導者の正しい動き、王西安老師、山口老師の動きを素直(敬)に真似することが必要である。これを敬いの姿勢と言う。

師と同じような動きが出来ない自分に、悔しさを覚えるようでなければいけない。形を反復練習し続けると、「気」の存在を知るようになる。本来、気というものは、とても小さいもので筋肉の力に頼って動いているような内は、その存在に気づかない。

しかし、太極拳の動きそのものに、身をゆだねることが出来るようになってくると、気を理解でき、とても大きなものと感じられてくる。そうなれば眼光さえも変わってくる。足腰が弱いと、どうしても上半身の力で形を作ってしまうので、動きも貧弱になり、落ちる力、太極拳の動きを待てる余裕もなくなってしまう。

王西安大師に学ぶ

精気神という言葉があるが、中国の高名な武術家、卜文徳老師曰く、

「天に三つの宝あり、すなわち月、陽(日)、星

地に三つの宝あり、すなわち木、土、火

人に三つの宝あり、すなわち精、気、神」と、これを稽古の段階であてはめると、

有形(精)の段階・・・一つ一つの形を正しく学ぶ段階

無形(気)の段階・・・始終、流れのある段階 反復練習「拳を打つこと万遍、神理自ずから現る」

心の中に入る世界(神)・・・動きを感じなくなる段階=動中の静 形は忘れる為にある。

太極拳を学ぶには、しばしば数千言を費やしても、その妙を尽すことはできない。しかし、身をもって法を説けば、非常に簡単に思われる。難しいのは修行であり、時に難しいのは、長く修行することである。

※ 平成2年12月のお便り「敬心」より掲載

 

 

 

30年前の太極接心会

 今から30年前、平成2年4月28~30日に太極道交会本部道場で行われた接心会(せっしんえ)についての内容を、前回同様、お便り「敬心」から掲載したいと思います。今後のお役に立てれば幸いであります。

「接心」とは「自分の心に接する」という意味で、「会」として集うのは「大衆の威神力」によって、お互いを励まし、一人一人が事を成し遂げられる為である。

今回は太極拳に重きを置き、1炷[ちゅう](約1時間)の間に動功(太極拳の動き)を40分、坐禅15分のスケジュールで組まれた。

前日の晩に睡眠をとった後、夜中の1時から4時まで(草木も眠る丑三つ時に昔の拳法家は鍛錬した)3炷、3時間仮眠ののち、夕方6時まで7炷の合わせて10炷を行なった。

その間の心得としては、まず「無言」であること。つまり相手と話しをしないわけで、常に気持ちを自分に向けることに専念しなければならない。

1炷の中では、時の合図で太極拳を始めれば、只ひたすら太極拳、坐禅になれば、只ひたすら坐るだけである。他のことは一切無用である。

接心会における太極拳の要領は、普段よりも高い姿勢で続け、長丁場を乗り切ることである。また、1炷に套路を3~4回繰り返すが、あまり外形にはこだわらず、自分の内面の動きをとらえる様にする。そうすることで、普段の練習でついた癖も取れてくるし、動きの中に気づかされる点も少なくない。黙々と動くことである。

また、接心を通しての太極拳の課題を一つ持っておくことも大切である。事前に山口先生から動作の欠点などを課題として与えられておくと、接心中に集中しやすいと思われる。

全体的な印象としては、昼過ぎ頃の7炷目が最も辛い。暗いうちは、集中力も出るが、この頃、疲れもたまってくるし、集中力も低下する。しかし、身体自体は、太極拳にとっぷりとはまってきたところなので、いわゆる佳境にさしかかった、この時こそ頑張り時なのである。(2日、3日と続けると段々と身体は楽になる)。太極拳の動きにまかせる感覚をつかみ、大切な課題を得ることが出来た。

接心会の雰囲気は、ある程度の張りつめた緊張感が漂い気分的に充実する。そこで何よりも大切なのは、何のための接心会なのか、自分の中で整理がつくように山口先生や、経験者に相談しておくことだと思う。

「動中の工夫」すなわち太極拳と、「静中の工夫」すなわち坐禅をもって、とかく流されがちな日常生活の一瞬一瞬に工夫してゆくことが道交会の目的である。

陳式太極拳の風格

コロナの感染拡大のため、自主稽古を余儀なくされている方々のために、今から30年前に地方の会員の方々に発送していましたお便り「敬心」の内容を掲載したいと思います。

陳式の名家、洪均生老師の「太極拳品」を紹介します。

1、端厳(初まりは厳格さを)・・・学ぶ者は鍛錬の中で厳しさ、難しさの中から規律を求め身につけねばならない。ゆえにまず厳格を主とする。拳は小さいが、身体を強くする、眼、身法、手法の規律を守り、動静開合、剛柔曲直、は螺旋の協調、対立物の統一である。

2、圓活(穏やかに)・・・拳を学ぶには規律を厳守するが、拘束ではない。厳格さの中に円転する穏やかさに注意すること。太極運動は、円周から離れず、上下相随でまず螺旋による弧の線で転換させ、内外へ循環をはかる、虚実はお互いの根となる。

3、軽妙・・・穏やかさは拘束を解く方法であり、軽妙さは穏やかさの効果となる。

4、沈着・・・軽妙の後に沈着を挙げたのは、目標もなくふわふわとするのを恐れるからである。沈着にする鍵は、頂勁にして身体を正し、重心の平衡を失わず、眼法は目標を注視し、動中の静を保つこと。

5.雄大・・・沈着さは内勁であり、雄大さは気勢である。両者が相互に表裏をなすには、規則の反復鍛錬に徹すれば、おのずと堺地に到する。

6、超逸・・・雄大さのみに片寄れば粗野となる。謙虚に謹しみ深くし、超逸したものを求める。

7、精密(充実)・・・超逸は規則を破ることではない。精密に技を研磨すれば空きのない充実に到する。

8、纏綿・・・充実とは小さめにまとめることで、これを調節するのが纏綿である。対立物の統一法則を保持するためである。

9、精神・・・外形の運びは充実した纏綿で表わし、精神は厳粛かつ活発さを表現する。

10、含蓄・・・精神状態が外に出過ぎてしまえば欠点となる。つまり含蓄が必要となる。

11、悠揚・・・かたくなな含蓄ではなく、おおらかにして悠揚迫らざるもの。

12、深遠・・精励すればするほど湧き出る泉のように尽きぬ妙味がある。

13、自然・・・力強い書の筆法をそのまま、拳法に移せば自然の妙となる。

太極拳は伝統的運動種目に属するが、理論と実践には完璧な芸術性を具えており、さらに体質の向上に適した運動法でもある。

「詩には詩の品格があり、書には書、拳にもまた品格がある。拳の風格の良し悪しは、その人の人格をもって基準となる」