11月 1日(木) アーバンプラザ
11月 8日(木) アーバンプラザ
11月15日(木) アーバンプラザ
11月22日(木) アーバンプラザ
11月29日(木) アーバンプラザ
「偶成」 朱熹
「少年老い易く学成り難し
一寸の光陰軽んずべからず
未だ覚めず地塘春草の夢
階前の悟葉己に秋風」
時の流れは人を待ってくれません。それだけに充実した時をすごしたいものです。
11月 1日(木) アーバンプラザ
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11月22日(木) アーバンプラザ
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「偶成」 朱熹
「少年老い易く学成り難し
一寸の光陰軽んずべからず
未だ覚めず地塘春草の夢
階前の悟葉己に秋風」
時の流れは人を待ってくれません。それだけに充実した時をすごしたいものです。
どっちに転んでも大丈夫な世界―禅と太極拳その根底にあるもの
僧侶・太極拳指導者 山 口(やまぐち) 博 永(はくえい)
き き て 平 位 敦
ナレーター: 今日は、「どっちに転んでも大丈夫な世界―禅と太極拳 その根底にあるもの」と題して、千葉県館山市(たてやまし)の能忍寺(のうにんじ)住職で太極道交会(たいきよくどうこうかい)道長の山口博永さんにお話しいただきます。山口さんは、昭和二十二年、大阪市の生まれ。十九歳の時、奈良県の曹洞宗慶田寺(けいでんじ)で出家し、その後鎌倉の円覚寺(えんかくじ)や福井県の仏国寺(ぶつこくじ)などで、臨済禅と曹洞禅の修行を積みました。太極拳を学び始めたのは、昭和四十八年、二十六歳の時です。その後中国に渡り、昭和五十七年から三十年以上、全ての太極拳の源流とされる陳氏太極拳(ちんしたいきよくけん)の第一人者から指導を受けました。山口さんは、太極拳の鍛錬の末、禅と共通する境地に触れたと言います。今日は禅と太極拳、二つの道を探求してたどり着いた境地についてお聞きします。聞き手は平位敦ディレクターです。
平位: 今回の番組のタイトルは「どっちに転んでも大丈夫な世界」という言葉を使わせて頂いたんですけど、これは山口さんが幼い頃からずっと大切にしてこられた言葉だったとお聞きしています。この言葉には、どんな意味が込められているんですか?
山口: 私が小さい時というのは、生まれたのはもう終戦ですから、その終戦の後に日本の国というのは大変な時代でありました。傷痍軍人と言われるような人たち、あるいは路上生活をしておられるような人たち、また進駐軍が来て日本人のことに対して非常に横着な態度をとったりですね、そういうところを目の当たりにしました。そしてとにかく食べるものがないという、これが一番困難な時代でしたから、私が小学校の時もそうでしたが、やはり家に帰って先ず御櫃(おひつ)を見るんです。そしてご飯が果たしてその中にあるか、どうか。ご飯があればその日一日遊びにも元気が出ますし、もしなければその日の夜果たして何を食べるのかなというふうな、そういう不安の中に育ちましたね。その終戦後のどさくさの中に私は一つ感じたのは、「どちらに転んでも大丈夫な世界はないのか」という。条件付きにこの世の中は動いている。例えばお金があれば大丈夫、なければ困るということで、条件付きではなくて、無条件というところから、有ってもよし、、無くてもよし、と。「無条件にしても大丈夫という世界がないのか」というふうなそういう問いかけがだんだんと成長するにしたがって芽生えてきたんです。それは何かわからないんですが、それはどういった世界なのか、それを私は知りたい。この思いが非常に強くなりました。それがだんだんとさらに成長していって、十三、四、五あたりに、何か知らないけども、人間の能力、この能力をもっともっとはるかに超えた精神世界があるんじゃないか。そういったものを直感的に思って、ある時夜中に起きてですね、キリスト教の通信講座を受けたりもしました。その神を私は知りたいということで、半年間はクリスチャンだったです。小さい時の思い、そこに解決されることはなかったんですが、その思いがやはり年頃になって、物心がついてきたときに纏まって方向性を定めていただいた、そういう気がします。
平位: そしてですね、出家されるわけなんですが、これは?
山口: ある時、書店で『禅入門』という本を見たときに、なぜかそれまで問題意識を持っていたその問題の解答が全部そこに書いてある気がしたんです。禅の中に私の本当の生き方があるんだ、というふうに、十六歳ぐらいの時に感じました。
平位: それがその「どっちに転んでも大丈夫な世界」にも、
山口: 通じるわけですね。結局自分の中にあるんだという。だから他に振り回されるとか、他には無い、自分の中にある。これがブッダ釈尊の「天上天下唯我独尊(てんじようてんげゆいがどくそん)」という、この言葉にめぐり合いた時に、何か私もう人生が決まったようなそういう気持ちになりました。
平位: そのような目的を持って、奈良の禅寺に。
山口: はい。
平位: 実際にどうでしたか? 修行してみると。
山口: いやぁ、最初はですね、まさかと思ったんですが、坐禅よりも作務(さむ)という作業の時間が多くて、朝から晩までもう作業に追いまくられていたというふうな、私の師匠(丸山英智老師)は非常に厳しい方で、私が庭を掃いて綺麗に掃き終わったら、その師匠が飛んできて、何をされるかと思ったら、その木を揺するんですね。そうしたらまた落ち葉がパラパラ落ちるわけです。そしてその師匠がいうことには、「お前は下が見えても上が見えんのか!」。そういう捨て台詞を残して行ってしまわれるというようなことですね。また拭き掃除もそうです。拭き残しというところ、それを指摘されて、「拭くのはこういうふうに拭け」と言ってですね、まぁ確かに理に適っていました。「箒の先も平らに減るように掃け! 弓なりになるような掃き方をしてはいかん!」とかですね、とにかく日常の作務という作業の中で決定的なしごきですかね、ありましたでしたね。
平位: その作業というのは、意味があったんですか?
山口: ええ。ありました。その時の師匠の言葉で「無功徳常精進(むくどくじようしようじん)」とおっしゃって、功徳なきところを常に精進せよ、という。結果を求めるな。失敗と成功に煩うな。とにかく「成り切れ」ということだったですね。それで私がお寺に入って一週間ぐらいした時に、私、師匠様に質問したことがあります。「世界平和とは何ですか?」って。そうしたら師匠さんは、「先ずはお経を覚えろ」とおっしゃるんですね。その時に「世界平和はどのようにして実現したらいいんですか?」と聞いたとき、「部屋に入れ!」とおっしゃるから、入った。そうしたら「非力の菩薩、人を救わんとして溺る」とおっしゃった。「だからお前、力をつけろ」とおっしゃるんですね。力つけるということは、本当にその場その場、今ここになりきってなりきっていくと、この訓練においてそれは可能だからと。だから全身全霊打ち込むというふうな教育であったんだと思います。
平位: そこでしばらく修行された?
山口: はい。三年修行しましたね。その間にもう一人の私の後の坐禅の師匠になる太田洞水(おおたとうすい)という方が、旅の僧としてお寺に来られたことがあるんです。その太田洞水老師が本当に山に三十年坐禅だけをして籠もっておられたという僧侶で、私非常に憧れました。そしていろいろお話を聞く中に、その老師が最後におっしゃった言葉は、「法を聴くあなたの目は輝いている! 道心(どうしん)あるものよ、本物の僧になるんだったら、野に下れ!」とおっしゃったんですね。
平位: 山口さんにおっしゃった?
山口: ええ、私に。
平位: 山口さんの目は輝いていると。
山口: そうです。法を聴くあなたの目は輝いている。「道心」というのは、本当の道の志ある人、というふうに私を見ていただいて、そして本当の僧になるんだったら野に下れ、とおっしゃったんです。野に下れとは、その当時、私はお寺に入っておりましたけども、お寺ではなくて、やはり自分自身を鍛えなさい、という言葉として、その言葉を受け取りました。そういうこともあって、私その奈良のお寺を出て、また坐禅の道に一筋に向かったんですね。
平位: そういうふうに禅の道に打ち込んでおられた山口さん、その禅の道を進むのかと思われたら、二十代半ばぐらいでしょうか、太極拳を始められたじゃないですか。
山口: はい。
平位: これはどういったことなんでしょう?
山口: まず最初、八歳の時に、桜井劇場という映画館で中国のニュース映画を見たんですね。その中に太極拳が出てきたんです。一人の老人が、部屋から出てきて田んぼのあぜ道をとぼとぼ歩きながら、そしてある広場に来た時に、なぜかスッと背筋が伸びてですね、そしてゆっくり動き出した時に、ものすごい衝撃を受けたんです。とにかく感動的だったんですね。で自分も一緒にやりたいというふうなそういう気持ちを持ちました。
平位: その時は太極拳は知らないわけですね。
山口: 太極拳という名前も知りません。ただ何かしらそこに力強い、私が後に坐禅に憧れると同じで、人が取れる絶対大丈夫な姿、その威厳というんでしょうか、尊厳というんでしょうか、そういったものを垣間見た気がします。
平位: それが八歳の山口さんの心に響いたんですね。
山口: はい。それで私自身が太極拳に次に出会えるのは、それからもう二十年近く後になるんです。その当時、仏国寺(ぶつこくじ)(福井県小浜市)という私の師である原田湛玄老師のお寺に、カナダから坐禅修行したいと言って、参禅者がおられてですね、そのカナダ人が、実はカナダで太極拳をかなり深く極めた人なんです。そしてどうしてもやっぱり太極拳をしたくなってですね、そのカナダ人について二年ほどやりました。それはもうやりたいという思いで精一杯でしたから、それは嬉しい毎日でしたね。
平位: その頃太極拳って、どういうふうなものだと、こうやってみて。
山口: そうですね。坐禅とそんなに違和感なかったですね。ゆっくりとした動作というのは深呼吸―坐禅も同じで、深呼吸でその集中力。今ここに徹底的に全身全霊を打ち込むという集中力においても、全く同じでしたから、違和感全然感じませんでした。ただそれを極めたい、もっと極めたいという欲はさらに起きました。
平位: 二十八歳の時ですか、太極拳を本格的に学ぶために台湾に行かれたんですね。
山口: そうです。本当は中国に行きたかったんですが、まだ開放されてない時期だったですから行けなかったんです。それで最初に台湾に行ったんですね。足掛け五年位、往ったり来たりですが。そしてこうしているときに、中国大陸が開放路線に入った、ということを聞いたもんですから、よ~し、じゃ大陸へ行こう。三十二、三だったでしょうか。毎年三十年行くことになりました。そして大陸で太極拳をやるんだったら、その発祥の地でやりたいと思って、それで河南省(かなんしよう)の鄭州(ていしゆう)というところから車で三時間ぐらいだったですが、陳家溝(ちんかこう)という村、そこに太極拳が脈々と伝わっていたんですね。最初に教えていただいた方は、陳氏(ちんし)太極拳の第十九世―まぁ日本で言えば柳生の里の柳生十兵衛みたいな人―その人について私習えたんです。それが陳小旺(ちんしようおう)という方と王西安(おうせいあん)、この二人が飛びぬけておられましたね。その後にどの先生方もオーストラリアに行かれたりしたもんで、ちょっと空白があって、あと北京にもう一人すごい先生がいるというのは前から知っておりましたから、その先生のところに行って学びたいなと思って、その方が第十八世馮志強(ひょうしきょう)という先生で、なぜ素晴らしいかというと、陳小旺、王西安という方の師匠なんです。この方は太極拳をさらに七回進化させた。その進化させたというのは、まあ私が感じたのは太極拳拳術―術から道という感じ、あるいは表面的な力というものから内面の力ということで非常に深い禅的な要素、それを感じ取りました。でやはりこれこそ最後やるべき太極拳だというんで、また十年ほどかけて通いました。
平位: でその太極拳ですね、どういうものなのかと。体をどのように使って、どういうことをしているのか。言葉では難しい話なんですけど。
山口: 太極拳という「太極」という意味、例えば、電池もそうですが、「陰極、陽極」、すなわち「マイナス極、プラス極」があります。「マイナス」を「陰」と申します。「プラス」を「陽」というふうに申します。「太極」とはいかなるものかと申しますと、数式で表すならば、「-5+5=0」というふうな、その「0(ゼロ)」というところを、これを「太極」と名付けます。
平位: 「-5」と「+5」の「5」なんですね。
山口: 「五」でも、「百」でも「千」でもいいんですが、例えとして。我々、太極拳の練習する時、「マイナス1プラス9(一陰九陽)」のアンバランスから始めて、で「マイナス2プラス8」、「マイナス3プラス7」、「マイナス4プラス6」、最後「マイナス5プラス5」となって、そして完成というか、究極はその「マイナス5プラス5」なんですね。これが力のバランスを言っているんですね。ですから右手を上に上げる時に、左手は下に下がるんです。右手が右へ行く時、左手は左に行き、こういうふうに正反対の引き合う力、これが「マイナス5プラス5」になったとき、その人の動きは完成された、ということになります。私たちは、もう最初は右だと言ったら、右の方ばっかり意識いって、左はないんです。そういうアンバランスな状態から始めます。でこの「0」という統一のところにおいては、陰と陽はなくなります。でありながら、陰と陽が実はその「0」という統一が現れます。仏教でも、「色即是空(しきそくぜくう) 空即是色(くうそくぜしき)」と言っているのは、まさに「マイナス5プラス5」これを物質的現象で「色」と。で「=(イコール)」これを(すなわち)統一の「0」、これを「空」というわけで、まさにこれは仏教の「色即是空 空即是色」この理にかなう力学です。それでこの太極を練習するために、今申し上げた五段階を練習して行くんです。その根本の動力―太極拳の動力は一体何かというと、この重力にあります。落ちるという力。落ちる力において、昇る力がそこに生まれます。跳躍は全部一回下にズンと落とすことにおいて、上に体が浮き上がる。
平位: 重力というのは、万有引力、重力は必ず人間の体に働いている。
山口: 働いているわけです。
平位: その力を使いながら人間の筋肉の動きも使って、
山口: まぁ筋肉は、ほとんど排除という考えですね。まあ立つということ自体が足の筋力ありますから、全く筋力なくして、というんではないんですが、筋力に頼らないという。
平位: 重力の力を生かして体を動かすということなんですか? 動かし方。
山口: そうです。動かし方。それで「先天の気」「後天の気」という言葉があって、「後天の気」は、これは生まれた後に身に付いた筋力において動く。これを「後天の気」といいます。それに対して重力だけで動く。これを「先天の気を使う」といいます。先天の気は、生まれる前からある気ですから。この「先天の気」が使える段階になっていくときは、第三段階あたりからそうなります。一段階、二段階は無理ですね。一段階において、まず覚えなければいけないのは形です。形には名前がついています。ですから、我々最初に習う太極拳は「八十三式」とか、「七十四式」とか、形がありますね。その中に「金剛搗碓(こんごうとうたい)、あるいは「懶扎衣(らんさつい)」「単鞭(たんべん)」「白鶴亮翅(はっかくりょうし)」というふうに名前がついています。
平位: いろんな型の名前がある。
山口: 型の名前ですね。ですからこれポーズで止めることもできます。で形ある段階を熟練していって、だんだんと流れにもっていきます。これが「型」から「気」に変えていく動きですね。その「気」に変えるとは、重力を用いて動けるかどうか、が要求されてきます。
平位: その筋肉で無理矢理動かすんじゃなくて、自然に従って動く。
山口: そうですね。坐禅も太極拳も同じなところは、人体が鍛錬をするとき、三つの要素を挙げます。一つは「体」、もう一つは「呼吸」、そして「心」。この体を調え、呼吸を調え、そして心を調えると。この三つの要素も挙げますね。これには厳格なやはり注意点があります。最終的には、この三つを一つにする。これが熟練ですね。三つが一つになるという時に、名前と形はなくなります。というのは、流れだけですから。深い深呼吸のもとに、身体と心が一致した流れ。で心は何をするかを決めます。右上、左下、前、後、それも縦横無尽に、十方に流していくわけです。これは太極拳の動作。最初に言いました、形あるところから形ないところで、有形から無形に至るといいます。これにおいて、さっきの五段階の三段階目になってくると、それが可能になってきます。無形から今度「心機に入る」という段階に入ります。「心機」というのは、心の「機械」の「機」と書いて、「機」の意味は、「機密(きみつ)」というふうなところから重要な「秘密」というふうな意味合いがあります。この重要な「秘密」ということから、私はアインシュタインの言葉を思い出しました。「ものの背後には深く隠された秘密がある。真実は単純にして美しい」とおっしゃった。確かに心の重要な秘密というのはそこにあるんですね。体から入って、そして心の世界にこう入っていったとき、その重要な秘密というのは「統一心」これを禅では「無分別智(むふんべっち)」と言います。分別を超越したところ。
平位: 太極拳でもそういうところに入るんですね。体の動きを探求したりすると、心に至る。
山口: そうです。心に至るんです。これをわかりやすく言ったのは、ティク・ナット・ハン(Thich Nhat Hanh :ベトナム出身の禅僧・平和・人権運動家・学者・詩人:1926-)あの方が、集中において参加―最初は観察、観察をしながら次に参加していくということで、マインドフルネスということを唱えられた。
平位: よく「気づき」という言葉を使いますね。ブッダもおっしゃっているんですね。それから始まって。
山口: そうです。参加していくという。道元禅師はここのところ「参究」とおっしゃったんです。ですから禅においても集中しなさいと。集中する。「なりきる」というのは、最初の観察的段階。それを「なりきってなりきっていったら、その先に忘れる」ということが参加。全身全霊打ち込んで、なりきることも忘れてしまう。その先に忘れるというところまでなりきった時に、ひらめき(「気づき」)が出てくる。これが心機に入るという。無分別にして智(し)る。分別はもうなくなって、そして智るという。
平位: その禅でおっしゃられていることと、
山口: 太極拳の「心機に入る」というところが同じです。ここですね。私は、太極拳をどういうふうにして分かったかというと、最後に就いた老師、この方がおっしゃっている言葉で「天地人合一」三つを一つにする。この「天地人合一」これがわかったときに、私は坐禅もそうだった!ということがわかったんです。これは本当に大きな気づきなんですが、「天地」というのは、本当に、身体的力学で一つに繋がったら、心は分別できない世界に入ります。「上は下では無い。下は上では無い」というのが分別。ところが、上と下が一本の柱でつながってしまうと、分けられないんですね。分けられない姿勢。力学のもとに自分の心はどうなるかというと、無分別にして智るという世界に入ります。坐禅そのもの―私、もういちど調べ直したら、坐禅も同じなんです。これが本当力学的にいうならば、「気沈丹田(きちんたんでん)」と言って、下っ腹に息を吐くと共に、下っ腹が充実してくると、自然に首筋が上に立つんです。
平位: 今おっしゃられているのは、理屈とか観念の話ではなくて、理論の話ではなく、体で感じた。同じことを改めてお聞きしたいんですけど、太極拳の場合は、どういう体の動きで、どういうことが現れるわけですか?
山口: 太極拳はですね、「各動作の後は渾然と、〝太極の気象〟に帰り、いささかの痕跡をも残さず、外観さながらに停止しているかの如くであるが、内面は絶えず太極が運行している」という拳理があります。例えば七十四の形があったら、七十四回その状態に入るんです。この時に何をするかというと、息を吐くんです。そして人体の中心である丹田に、その気をズーッと下ろしてくる。気を下ろすということは、両肩、両肘、胸の力も全部重力に任せて沈めるんです。そうしたら首の筋がスーッと立つんですね。これを専門用語で「気沈丹田(きちんたんでん)・虚領頂勁(きよれいちようけい)」と申します。沈む気(気沈丹田)が上昇の気(虚領頂勁)と連動して天地を貫きます。
平位: 太極拳の動作の中で、そういう瞬間が現れるわけですか?
山口: あるわけです。だから太極拳、私、手段で、目的は別に悟りというものがあると思ったら、そうじゃなかった。練習の最中にその状態が顕れる。としたら、道元禅師がおっしゃった「修証一如(しゆしよういちによ)」という。「修」という修めているときに、悟りがそのまま現れる。そうしたら別に手段ではなかったんです。太極拳も坐禅もそうです。 (因果一如)
平位: その動きの中で現れる。
山口: 現れる境地といいますかね、その精神状態、それが「天地人合一」という。
平位: 太極拳の時、現れる。
山口: 気沈丹田、虚領頂勁(きょれいちょうけい)。
平位: それと坐禅で坐っているときも(天地同根)同じ状態なんですか?
山口: 同じ力学であった。これを私は太極拳の方から教えられました。
平位: 幼い頃からですね、「どっちに転んでも大丈夫な世界」というものを追い求めて、それがまさに…
山口: そのことなんですね。「どっちに転んでも」というのは、天にあってよし、地にあってよし、前にあってよし、後にあってよし、右にあってもいい、左にあってもいい。全部繋がったんです。「転びようがない」というのが本当の答え。どっちに転んでも大丈夫な世界は、転びようがなかった、という。一本につながってしまうと。それでそこにですね、智るという力で、これが法悦という歓喜に移り変わるんです(万物一体)。絶対大丈夫ということで、にっこり笑える世界。人間が本来求めている歓び、安心、自由と平和。それが生まれますから、内面に、心の中に。これは外の世界とは一切影響ないです。
平位: 私のようなろくに修行したことない人間には、到底実感はできないんですけども、なにかそういった真実の一端に触れたような、
山口: 本当に私もそれは出家した時、それを願って出家したんです。まぁそれがまず自分の中にあるぞ、という。それが天地繋がったら、一切と自分との区別がなくなってきます(天地同根、万物一体)。存在ということに、ものすごい感動を覚えます。私は、太極拳はそういう意味で、「動く禅」として本当にこれを世に残していかなければならない使命を感じています。
これは、平成三十年五月二十日に、NHKラジオ第二の
「宗教の時間」に放送されたものである
A World Where Everything Will Be Alright Whichever Way Things Fall: The Foundations of Zen and Taijiquan
English translator Andrew Carrico ( Edogawa Branch )
*The following was aired on May 25, 2018 on NHK Radio 2’s Shukyo no Jikan.
Narrator: Welcome to the program. Today’s guest is Hakuei Yamaguchi, abbot of Nonin-ji Temple in Tateyama, Chiba Prefecture and head of Taikyoku Dokokai. He will be speaking on the foundations of Zen and taijiquan (tai chi).
Mr. Yamaguchi was born in 1947 in Osaka City. At 19 he became a monk at Keiden-ji Temple of the Soto school in Nara. He continued his training in Rinzai and Soto Zen at Enkaku-ji Temple in Kamakura and Bukkoku-ji Temple in Fukui Prefecture among other places. Mr. Yamaguchi started learning taijiquan in 1973 when he was 26. Later, for more than 30 years starting in 1982 he took trips to China to learn Chen-style taijiquan, the oldest form of taijiquan, from the foremost masters. Mrs. Yamaguchi says that after his years of training in taijiquan he came in touch with the place where the paths of Zen and taijiquan converge. Today we will hear him speak about this place he has arrived at by following the paths of Zen and taijiquan. The interviewer is Atsushi Hirai.
Hirai: We’ve used the title “A World Where Everything Will Be Alright Whichever Way Things Fall” for this episode. I’ve heard that this is a phrase that’s been important to you since you were very young. What do these words mean to you?
Yamaguchi: I was born soon after the War. Japan was in a very difficult situation during this period. I saw wounded soldiers and people living on the streets. The occupying forces came with their brazen attitude towards Japanese people. Worst of all there was nothing to eat in these times. When I was in elementary school the first thing I would do after coming home was check the rice bin to see if there was any rice. If I found rice I could play happily, but if not I would worry about what we would eat that night.
One thing I began to wonder during this period of post-war turmoil was whether there is a place in which, no matter which way things fall, everything would be alright. The world operates on conditions. If I have money I’m okay, if not then I have a problem. As I grew older I started to seek out the place where such conditions were not required for security, where I could be content either with or without. I didn’t know what kind of place that would be, but I wanted to know. And my desire to know continued to develop.
When I was around 13, 14 or 15, I instinctively felt there must be a spiritual world out there far beyond the capabilities of human beings. So one night I woke up and took a correspondence course on Christianity. I became a Christian for half a year as I wanted to know God. The feelings I’ve had since I was very young weren’t resolved at that time but the feelings were becoming consolidated as I matured and they started to determine a direction for me.
Hirai: And so eventually you became a monk. How did that happen?
Yamaguchi: I found an introductory book about Zen at a book store and for some reason I got the sense that all the answers to the questions I had been carrying with me were written in this book. When I was about 16 I felt that the true way of living for me was contained in Zen.
Hirai: And this concerns the world where everything will be okay whichever way things fall?
Yamaguchi: Yes. It turns out that this world is inside of me. It’s nowhere but here. It’s the place where I can stay unaffected by other things. When I encountered the Buddha’s words, “I am the one and only,” I felt like my life had been determined.
Hirai: So you went to the Zen temple in Nara Prefecture with such goals.
Yamaguchi: Yes.
Hirai: How was your experience training there?
Yamaguchi: Well, at first there was more time set aside for work than for zazen. I remember having to perform chores from morning to night. My teacher was an extremely strict person. After I finished sweeping the garden he would come out and sway the trees so that leaves would fall on the ground again. Then he would say “You see what’s down below but not what’s above!” and walk away. The same thing would happen when I was wiping the floor. He would point out spots I missed and tell me how to do it properly. But it made sense. “Sweep so that the tip of the broom will wear out flat!” “Don’t sweep in a way that will make the broom arched!” I was thoroughly gruelled while performing the daily chores.
Hirai: Did all this chores have a purpose?
Yamaguchi: Yes, it did. My teacher had a saying to the effect of ‘apply yourself diligently to that which is meritless.’ Don’t seek results. Don’t be troubled with success and failure. Just do what you are doing utterly. That’s what it meant.
About a week after entering the temple I went to my teacher and asked him, “What is world peace?” He said, “First learn the sutras.” Then I asked, “How can world peace be achieved?” He said, “Go in your room!” so I did. Then he told me, “The powerless bodhisattva drowns in his attempt to save others. So you must develop your power.” He taught me that developing power means learning to act fully in every moment and that this can be achieved through practice. I believe it was an education in devoting one’s whole body and mind to the situation at hand.
Hirai: Did you train there for some time?
Yamaguchi: Yes, I trained for three years. During that time a monk visited the temple who would later be my zazen teacher. His name was Tosui Ota and he visited the temple as a travelling monk. He had previously spent 30 years in a mountain just practicing zazen and I greatly admired him for that. After listening to him speak at length, his final words to me were, “Your eyes gleam when you are listening to the Dharma. Faithful one, if you are to become a true monk go into the fields!”
Hirai: He said that to you?
Yamaguchi: Yes, to me.
Hirai: He said that your eyes were gleaming?
Yamaguchi: Yes, that my eyes were gleaming when listening to the Dharma. He used a word referring to one who has the resolve to follow the true path. That’s how he saw me, and he told me to go into the fields if I was to become a true monk. At the time I was a monk in a temple and so I took those words to mean that I should focus on training myself. Eventually I left the temple in Nara and dedicated myself to zazen.
Hirai: You were committing yourself to the way of Zen. But in your mid-20s instead of limiting yourself to Zen you started practicing taijiquan.
Yamaguchi: Yes.
Hirai: How did this happen?
Yamaguchi: First, when I was eight I saw a newsreel about China at a movie theater called Sakurai Gekijo. That’s where I saw taijiquan. An old man came out of a room and plodded along a ridge between some rice fields. After he arrived at an open space his spine became erect somehow. When I saw him start to slowly move his body I was deeply moved. It left a mark on me. It made me feel like I wanted to join in.
Hirai: But at the time you didn’t know about taijiquan.
Yamaguchi: I hadn’t even heard the name ‘taijiquan.’ But similar to how I would later be drawn to zazen I caught a glimpse of something powerful, a steadfastness that humans can embody and its dignity and majesty.
Hirai: And that resonated with you at eight years old.
Yamaguchi: Yes. It would be almost 20 years before I would come into contact with taijiquan again. While I was a monk at Bukkoku-ji Temple (Fukui Prefecture) there was a Canadian who had come to practice zazen. This person had actually practiced quite a bit of taijiquan in Canada. It made me really want to practice too and so I practiced with him for about two years. These were happy days for me since I had such a strong desire to do taijiquan.
Hirai: What was your impression of taijiquan after practicing it a bit?
Yamaguchi: Well, it didn’t conflict at all with zazen. The slow movements are performed with deep breathing. Zazen is also done with deep breathing and with concentration. Both are about fully committing to the here and now with concentration, so there was nothing unnatural about it. It only gave me a greater desire to develop my practice further.
Hirai: I believe you were 28 when you first travelled to Taiwan to delve deeper into taijiquan.
Yamaguchi: That’s right. I actually wanted to go to China but it hadn’t been opened to foreigners yet so I was unable to go. That’s why I went to Taiwan first. I travelled back and forth for about five years but during that time I heard that mainland China has started to open their borders so I decided to travel to the continent. I must have been around 32 or 33 when I first went. I continued to go every year for nearly 30 years.
Since I would be going to China to learn taijiquan I wanted to go to its place of origin. Taijiquan originated in Chen Village where it continues to be practiced. It’s about a three-hour drive from Zhengzhou in Henan Province. My first teachers were Chen Xiaowang, 19th generation of the Chen family, and Wang Xian. In Japan this might be the equivalent of learning from Yagyu Jube from Yagyu Village. Both of these teachers were remarkable and it was a great privilege to be able to learn from them.
Later there was a blank period when both teachers were travelling abroad to places like Australia so I went to see a taijiquan master in Beijing who I had previously heard about. He was Feng Zhiqiang, of the 18th generation, and he was in fact a teacher of both Chen Xiaowang and Wang Xian. He had developed taijiquan through seven phases of evolution. His evolved form of taijiquan seemed to me to have a deeply Zen-like quality. It exhibited a development from technique to principle or from surface strength to inner strength. I felt that I must learn his taijiquan so I made trips to visit him over a 10-year period or so.
Hirai: So what is taijiquan exactly? How do you move your body and what is being performed? I’m sure it’s not easy to describe it in words.
Yamaguchi: We can look at the meaning of “taiji” in taijiquan. There is a negative pole and a positive pole, just like a battery. The negative we call yin and the positive we call yang. If we use the mathematical formula ‘–5 + 5 = 0,’ taiji is the point at which we arrive at zero.
Hirai: So it’s –5 and +5?
Yamaguchi: It could be 5 or 100 or 1,000. When we practice taijiquan we start with an unbalanced state of ‘–1 and +9.’ Then we move to ‘–2 and +8,’ ‘–3 and +7,’ ‘–4 and +6’ and finally ‘–5 and +5.’ That would be the completion, the ultimate. This refers to the balance of force. When the right hand goes up, the left hand goes down. When the right hand moves to the right, the left hand moves to the left. When the two opposing and mutually attracting forces balance out to ‘–5 and +5’ the practitioner’s movement has reached completion.
What normally happens is that when we hear ‘right’ all our attention goes to the right side and we’re unaware of the left. We start from an unbalanced state like this. In the unity at zero the yin and the yang disappear. And yet it’s the yin and yang that create that unity of zero. In Buddhism it is said that ‘form is emptiness and emptiness is form.’ Form is the material phenomenon of ‘–5’ and ‘+5.’ Emptiness is the unity of ‘= 0.’ So this system of dynamics is consistent with the Buddhist teaching of ‘form is emptiness and emptiness is form.’ In practicing taijiquan one must train through the five stages I mentioned.
The fundamental force for taijiquan comes from gravity. The force that pulls down generates the upward rising force. In the case of jumping, everything is allowed to drop right before the body leaps up.
Hirai: Universal gravitation is a force that is operating on human bodies all the time.
Yamaguchi: Exactly.
Hirai: So the muscles are used as well while using the force of gravity?
Yamaguchi: The idea is to eliminate most muscular force. It’s not that muscles aren’t used. The act of standing requires leg muscles. But we don’t rely on muscular force.
Hirai: So the body is moved using gravitational force?
Yamaguchi: Yes. There are these terms ‘primordial qi’ and ‘acquired qi.’ With acquired qi, one moves by way of muscular strength amassed after one is born. With primordial qi, one moves using only gravity. Primordial qi is qi that exists before birth. A practitioner would be around the third level when they start being able to use primordial qi. It isn’t possible yet in the first and second levels. In the first level one must learn the form. Each of the postures in taijiquan have names. And so in the beginning we learn routines called 83-form or 74-form containing postures such as ‘Buddha’s Warrior Attendant Pounds Mortar,’ ‘Lazily Tying Coat,’ ‘Single Whip’ and ‘White Crane Spreads Wings.’
Hirai: Many shapes with names.
Yamaguchi: Names of shapes. So it’s possible to pause in the postures. The practitioner becomes proficient in the forms to a degree and starts to emphasize the flow. This is the process of transitioning from shape to qi. What it required in this transition is movement using gravity.
Hirai: So instead of moving forcefully with your muscles you move in accordance with nature.
Yamaguchi: Yes. One parallel between zazen and taijiquan is the three elements specified in training the human organism: body, breath and mind. The body is adjusted, the breath is adjusted and the mind is adjusted. But there is one important point. Ultimately these three must become one through diligent practice and proficiency. When the three become one there is no longer name or form. That is to say, all that remains is flow – a flow with deep breaths in which body and mind are aligned.
The mind decides what to do. It directs the flow to the upper right, lower left, front, back, in all directions as it wills. This is the movement of taijiquan. When one enters the third of the five stages it becomes possible to proceed from form to formlessness. From formlessness one then proceeds to xinji, which can be translated as ‘vital secret of the mind.’ It reminds me of the words of Einstein. He said that there is a deeply hidden secret behind the world of objects and that truth is beautiful in its simplicity. The vital secret of the mind is in this same place. When one enters the body and then goes into the realm of the mind, the vital secret is experienced as unity of mind. In Zen this is called non-differentiated knowledge. It’s knowledge that’s beyond conceptualization.
Hirai: So it’s possible to enter such places in the mind by investigating bodily movements in taijiquan?
Yamaguchi: That’s right. It leads to the mind. Thich Nhat Hanh described this same process very simply. He said in practicing concentration you start with observation but then you gradually move to participation. He taught mindfulness.
Hirai: The word mindfulness is used frequently. Buddha spoke of it also and it started from there…
Yamaguchi: Yes. So there is observation and participation. The Zen master Dogen also spoke of this. In Zen we practice concentration. In the practice of concentration, ‘observation’ corresponds to practicing with total determination while ‘participation’ corresponds to practicing with such determination that the practice is forgotten. There is no longer awareness of determination. Once at this place of forgetting one can experience inspiration. This is called living in the secret of mind. There’s no longer any differentiation, just knowing.
Hirai: What they are saying in Zen…
Yamaguchi: It’s the same as ‘seeing in the secret of mind’ in taijiquan. I came to understand this point through my last teacher, Feng Zhiqiang, who taught the unification of heaven, earth and man. The three are brought together as one. Once I understood this I also understood that it’s the same in zazen. This is really the first realization. When heaven and earth are truly connected, you enter a place where there can’t be anymore differentiation. Differentiation is where up is not down and down is not up. However when up and down are connected by one single pillar the two can no longer be separated. It’s a posture where separation is not possible.
As for the mind, it enters the place of knowing without differentiation. I found that it’s the same with zazen after going back and researching once more. The mechanics can be described as the sinking of qi down to the dantian or abdomen. There is the sense of the belly becoming full as one breaths out and the back of the neck naturally becomes erect.
Hirai: You’ve been speaking about what you’ve felt in your body, not about reasoning or concepts, not matters of discussion. If I may ask again, how does the body move in taijiquan and what are the results?
Yamaguchi: In taijiquan there is the principle of entering the state of taiji at the end of each movement. For example if there are 74 forms you would enter that state 74 times. What happens is that you breathe out. Then you relax the qi down to the dandian at the center of the body. Relaxing the qi downwards means you let your shoulders, elbows and chest fall with the gravitational pull. Then the neck will stand up straight. The technical terms for this are xu ling ding jin (straighten neck and suspend head) and qi chen dan tian (sink qi to dantian).
Hirai: These moments arise during the performance of the taijiquan movements?
Yamaguchi: Yes, they do. I used to think that taijiquan was a means and that the goal was satori, enlightenment. But that wasn’t the case. The state emerges in the midst of practice. This is what Dogen taught as the ‘oneness of practice and attainment.’ It’s during the discipline of practice that enlightenment arises. So taijiquan is not a means. Nor is zazen.
Hirai: It arises in the movements.
Yamaguchi: It’s a field that emerges, you could say. The ‘union of heaven, earth and man’ refers to this state of being.
Hirai: It arises during taijiquan…
Yamaguchi: A force that pulls upwards as well.
Hirai: Does the same thing happen while you are practicing zazen?
Yamaguchi: It’s the same mechanics. I was able to learn it through taijiquan.
Hirai: Since you were young you were seeking the world where everything would be alright whichever way things fell.
Yamaguchi: And this was the answer. What it means is that it’s okay to be at heaven, okay to be at earth, okay to be in front or to the back, to the right or to the left. Everything connected for me. The true answer is that there is no falling. The world where everything will be alright is the world in which there is no falling to begin with because everything has become connected. This is world then transforms into ecstatic joy with the power of knowing. The person who knows that everything will be okay no matter what can smile genuinely. The heart experiences joy, peace, freedom and peace that all people are seeking. It doesn’t matter what happens in the outside world.
Hirai: It’s an experience that’s far from reach for somebody like me who hasn’t trained seriously. And yet I feel as if I’ve had a glimpse of the truth.
Yamaguchi: That’s what I was looking for when I first became a monk. It’s something that’s inside of you, first of all. Then, when heaven and earth are connected, the separation between the self and everything else starts to disappear. You become deeply moved by the fact of existence. This is why I feel that it is my mission to pass on taijiquan as a ‘moving Zen’ to future generations.
Andrew
Houen Miura