王西安大師に学ぶ「求道の太極拳」4

「人人利なれども、道を行ずることは衆力を以ってす」(道元禅師)という言葉があります。それぞれ、みな能力があっても、その能力を引き出すためには、多くの力によってひらけるのです。
つまり、指導する人も、学ぶ人から、多くの気付きを得ることが出来るという意味にとらえられます。

 

稽古がはっきりとした目的、自己確立、自他和合という目的で行われるとき、それは修行、修練となります。
日々怠ることなく、稽古に励みながら、自己の修練と同時に、次世代の道友に、この道交会の精神をお互いに切磋琢磨して伝えていきたいと思います。
新会員を募集しています、是非体験にいらしてください。

王西安大師に学ぶ「求道の太極拳」3

型をしっかり踏まえながらその型を超えていくと、動作から心が離れ、自由自在に技が繰り出せるようになり、「我もしらず」という境地に至ります。
陳氏太極拳における五層の功夫の第五層の段階です。そうした稽古の段階を昔から「守・破・離」とよばれています。
私は決して精神論をいっているのではありません。禅僧である太極拳の師匠、山口博永老師について、禅の修行のごとく35年学んできたからいえるのです。

王西安大師の陳家溝の自宅にて撮影

「型にはまる」段階でとどまることなく、次の段階を目指して、工夫研鑽していきましょう。太極拳に興味のある方は、是非一度体験にいらしてください。

王西安大師に学ぶ「求道の太極拳」2

学びの道は「まねび」、すなわち師の技や理論をひたすら謙虚に模倣することからしか始まらない。
模倣するとは、一定の型に身を入れる修練を積むことである。そのためには、「私情をさしはさまない」「己を虚しくする」という捨我の精神が求められます。ですから自己中心の我欲が強いと、稽古や修練は進みません。

陳氏太極拳図説の冒頭にも「太極拳を学ぶには、敬いの気持ちがなければ学べない」と書かれています。私事ですが、江戸川支部を「敬心道場」と名付けたのもその所以です。
さらに、稽古が目指すのは「自由」の境地の段階です。「型にはまる」だけでは、この道を究めたとはいえない。