あなたならこの問いにどう答えますか?各自いろいろな目的があって良いと思います。
私は、太極拳は修行の道だと思っています。強くなりたいということもありますが、それよりも太極拳を取り組むことそのものが、人生における修行だと考えます。
敬いの心がなければ太極拳を学ぶことができません。これは我欲ばかり先に立ってしまったのでは、自然な動きなどできないということです。
何事も我を出せば我におぼれてしまいます。いちばんいいのは、無心になるということです。
理にかなった技の仕組みのことを、古来、武道では理合(りあい)と呼びます。動きが理合にかなっていれば、おのずと個々の技に対するこだわりは消えていきます。技が消えることによって、初めて相手のどんな動きにも臨機応変に対処することができます。(五陰五陽)
ここに至ったとき、太極拳の武術としての真価が初めて発揮されるのです。
また、武術(太極拳)というものは、日常生活から逸脱した特別なことであってはいけません。
ただ道を歩いているにしろ、そのときの心のあり方、姿勢の保ち方、機を見て敏なる感覚などが、すべて理合の表れであり、またそう努めることが修行であるわけである。
理合にのっとれば、そこに調和(中庸)が生まれてきます。姿勢、身のこなし、人との接し方、言葉使い、そうしたあらゆるものに調和が宿ります。強い弱いでなく。自己が常に最善の状態でいられるということ、それが武術(太極拳)です。
その場、その場において最善であることが修行です。ですから、太極拳の修行に終わりなく、一生涯、向上心を持ち続けることができるのです。
平成3年7月お便り「敬心」より掲載