陳式太極拳 王西安大師に学ぶ  太極道交会発足 回想録6

右から山口博永老師、王西安老師・三浦方圓 1992年訪中

山口老師と月1回、館山での稽古のほかに、先生が教えている練習会にも参加する様になり、日曜日の午前中は横浜の会、午後からは東京の会にも参加するようになりました。
そして先生に出会ってから5年後に山口老師から得度(拝師)するように言われ、1987年、私が26歳の時、山口老師が得度した日と同じ4月5日に館山で拝師しました。
山口老師は、その間も大陸に渡り毎年勢力的に陳小旺老師から7年、王西安老師から17年に渡り課題を与えられて修業していました。武術雑誌などにも「隠れた名師」と評され、他の武術団体からも、いつ山口老師が表舞台に出てくるのかと警戒されたこともありましたが、そんなことは全く考えずにひたすら稽古に励んでおりました。
しかし、先生の練習会が次第に増えてきたので、私たち有志が先生と相談して、館山・横浜・東京を合同して「太極道交会」という名前を付けてもらい、1987年会が発足するようになりました。(次回に続く)

陳式太極拳 王西安大師に学ぶ 山口老師と稽古 回想録5

山口博永老師と三浦方圓の推手稽古

山口博永老師と毎月1回、館山で稽古することになり、土曜日の夜に先生宅に伺い挨拶をしてから、下の吊り橋を渡ったところにあった山小屋で1泊して、早朝5時から山頂の本堂まで走って行き、坐禅を行い、その後、作務の清掃、時には草刈りを1日行ったりもしました。今日は稽古はないかと諦めていると、帰りぎわみっちりと稽古してくれました。
私はまだ大学生だったので時間があり、春休み等に一週間くらい一緒に稽古させてもらいました。早朝5時から2時間、午前中2時間、午後2時間、夕方2時間と1日8時間以上稽古しました。
当時、私は22歳で山口先生は36歳でしたので、先生も真剣に発勁で胸に体当たりしてきました。空手時代の打撃と異なり、内臓が締め付けられるような衝撃を受けたことを覚えています。
私はいつしか、黙々と稽古して身体を練っている先生の姿を見ているうちに、私もこの求道の太極拳の道を歩んで行こうと決意しました。(次回に続く)

陳式太極拳 王西安大師に学ぶ 山口老師との出会い 回想録4

山小屋で修業中の一コマ「人生いかに生くべきか」を熱く語る
 山口老師(38歳)と三浦方圓(24歳)

李先生が企画してくれた館山合宿によって始めて、禅僧の山口博永老師に会うことが出来ました。第一印象はとても寡黙で、まさに修行僧という雰囲気でした。
当時、山口老師は36歳くらいで禅と太極拳の共通性を感じ、静と動を兼ねた修行を行ない、すでに台湾の武壇という武術団体で八極拳の達人、劉雲樵大師に可愛がられ、そこで高弟より太極拳を約5年間に渡り学んできていました。
私たちは中々、太極拳を教えてほしいと言えないでいると、若い人はまず足腰を鍛えることが大切だから単腿をまず稽古しましょうと言われました。山口老師も武壇で最初に単腿を毎日繰り返し8カ月間稽古させられたそうです。各人の動きを見てどの拳法がその人にむいているか、武壇の指導者が判断されたそうです。
山口老師は幸運にも希望の太極拳を学ぶことが出来、その後、中国大陸に渡り、陳式太極拳の四天王の陳小旺老師、王西安老師に学ぶことになります。
私たちは、この合宿で単腿十二路を学び、それぞれが忘れない様に自分たちの型の担当を決めて稽古しました。この合宿がきっかけとなり、私たち若い20代の3人はいつしか月に1回館山を訪れて、山口老師と一緒に稽古させてもらうことになりました。(次回に続く)

陳式太極拳 王西安大師に学ぶ 太極拳への入門 回想録3


20代の修業時代(道交会の三羽烏)
左から齋藤自照、山口博永老師、大橋直太、三浦方圓

 陳式太極拳 王西安大師に学ぶ 太極拳入門

  太極拳を学ぶきっかけは、澤井先生の中国武術の影響もありましたが、空手時代にウェイトトレーニングを取り入れ、筋力をつけ、体重を増量させるために毎日プロティンを飲んだり、稽古の前に小腹が空くためポテトチップをほぼ毎日食べていた習慣から、血圧がだいぶ高くなっていたので、一つには健康を回復させる目的もありました。
 空手時代は、稽古に20人参加していると、20人全員と組手をするという稽古を行なっていたので、組手を敬遠して辞めていく者が多かったので中々、友人が出来ませんでした。
 太極拳を始めてからは、のちの道交会の三羽烏と言われる大橋さん、斉藤さんと同年代の友人に恵まれ、稽古にも活気がありました。最初の師匠である李春穆先生は、本業は作家として活動しており、とても教養のある方でした。私たちに20代で太極拳だけをやるのは、不自然だと言われ、ヨガ、社交ダンス、また、スキーの合宿なども企画してくれました。いろいろなことを教えてくれ本当に感謝しています。
 ある時、李先生が所属する太極拳団体の指導員クラスの方が陳家という武術的な太極拳を台湾で修業してきた方に学んでいるということを聞きました。当時は、まだ陳式太極拳という源流の太極拳を教える人はいなかったので、とても興味がありました。現在の多くの太極拳の団体の発足者がその方から学んでいると当時聞きました。
私もすぐにでも学びたかったのですが、まだ太極拳を1年くらいしか学んでおらず、指導員でもなかったので半ばあきらめていました。
 すると、李先生は、そんな私たちを見て、その方が千葉県の館山に住んでいるので、うちの会で合宿を組んであげると言ってくれました。李先生はとても斬新な方で、我々を連れて10人くらいで館山合宿を行うことになりました。その時に出会った方が、今の師匠である禅僧の山口博永老師である。 (次回に続く)

陳式太極拳 王西安大師に学ぶ 太極拳との出会い 回想録2


右側が李春穆先生、座っているのが私、三浦方圓(22歳)、左側が山口博永老師

王西安大師に学ぶ  太極拳との出会い

 太気拳の澤井先生が空手道場に来るようになり、私の中にも組手に対する考え方が少しづつ変わってきました。顔面への突き、金的の急所への蹴りがありならば全然間合いが違ってくることを学んだからです。
 私が稽古していた道場は支部でしたが、とても斬新な稽古法を取っており、全日本大会の6カ月間はフルコンタクトのルールで、後の6カ月間は顔面への突き、蹴り、急所への蹴りもありの組手を行っていました。もちろん防具を着けていましたが、澤井先生が顔面の防具を着けると感覚がつかめないので、防具を着けないで組手をするように言われたので、手に軍手を着けて顔面をはたく稽古もしていました。
 当時は、現館長も稽古しに来ていたのを覚えています。私も大学時代の全盛期、「業師三浦」と異名を貰っていましたが、実家の移転によりこの道場を去ることになり、残念な思いがありました。
 この直後、やはり何か身体を動かしたくなり、たまたま広報を見ていたら、近くで太極拳を行っているところがあり、行ってみることにしました。小学校の体育館で日曜の午前中、李春穆先生という背の高い先生が指導されており、動いてみるとゆっくりだけれども、結構きつく、全身運動になると思い入会しました。
 当時、同じ日に大橋さんという同年代の方も入会され、この方と親しくなり、いつしか毎週通うようになりました。まさか、この時太極拳を今日まで続けるとは、思ってもいませんでした。(次回に続く)

陳式太極拳 王西安大師に学ぶ 中国武術との縁 回想録1


21歳の太極拳修行時代 後列右が三浦方圓
後列左が師匠の山口博永老師

 王西安大師に学ぶ「中国武術との縁」
 私、三浦方圓は幼少の頃より武道好きの少年でした、小学校の3年生の時に地元の警察署で剣道を学んだのが最初でした。当時はまだ竹胴の時代で、張りつめた緊張感の中で稽古していたことを懐かしく思い出します。
 中学校では、サッカー部に所属して毎日のように走り回っていたお蔭で足腰はかなり鍛えられました。中学2年の時に「空手バカ一代」の劇画に感化され空手を始めるようになりました。強さに憧れ毎日手帳に、腕立て、腹筋、背筋、柔軟などの記録をして、高校、大学2年まで約7年間学びました。
 そして大学時代にフルコンタクトの空手の道場で、コンビネーションによってスパーリングを重視した稽古を行っていた際、太気拳の澤井健一先生が組手の時間になるとしばしば見にこられるようになりました。その当時は、私は澤井先生を知りませんでした。空手の稽古の終わりに立禅・這をおこなうこともその当時行っていましたがやはり何をやっているのか解りませんでした。
 私は毎日道場に稽古に通っていたので、ある日、道場で稽古後も自主練習をしていると、師範代の方が澤井先生から思いきり突いてきなさいと言われているところを偶然目撃しました。当時の澤井先生は70代後半くらいでしたから、師範代の方が手加減して突いていったら怒られ、真剣に二度目は顔面めがけて正拳を突いた瞬間に倒されてしまいました。稽古後の時間帯だったので目撃した道場性は私と2、3人しかいませんでしたが、私は強い衝撃と中国武術に関心を持つようになりました。のちにその師範代の先輩は、澤井先生から這、立禅を学び、全日本空手道大会で優勝しました。
 私は大学2年生の時、自宅が移転することになり、その道場を去ることになりますが、その数年後、その道場は、チャンピオン製造工場と言われるようになり、多くのチャンピオンが育っていきました。
 私は、その後、いろいろな方々の御縁によって太極拳の良師、道友に出会うことになる。
(次回に続く)

陳式太極拳 王西安老師に学ぶ 翻訳3

王西安大師の門弟135人の紹介されている本が、5年の歳月を経て今年の5月に中国で出版されました。
「太極的力量-王西安和他的弟子們」 河南科学技術出版社
512ページで高価な本です。
1ページ目に私が掲載されておりますので、関心がある方はお取り寄せしてください。 商品コードTJDL515688 分類:武術

「2人の大師に育てられる」 翻訳3
太極の道において三浦方圓は何人かの先生に付いた。その中でも山口博永先生は、彼が最も敬意を払う日本太極拳界の大師である。
山口先生は日本の太極拳界でも人格高潔にして名声が高く、先生に付いて学んだ人は数知れない。1980年、三浦方圓は山口博永老師に付いて学んだ後、その技芸の進歩は速くなった。それは忘れ難き一時期であった。毎日山口先生と一緒にいて、太極の天地を漫遊し、その深奥なる太極世界を見通し、彼の強烈な探求欲を満たすことになったのである。
太極は広大な舞台であり、そこには様々な人が集まって来る。三浦方圓は多くの人々と交わり、少なからぬ友を作り、その生活も人との付き合いが拡大するにつれて多彩なものとなり、楽しみも増えていった。もしも太極に触れることがなかったなら、自分の生活圏はあるいは狭い範囲に限られていたかも知れず、生活も全く色を欠いたものになっていたかも知れない、と三浦方圓は感嘆する。
山口博永の友人は世界中にいて、著名な世界の太極拳王、王西安は彼の中国人の友である。中日太極拳界の交流を拡大するために、山口博永は常々王西安及びその他の中国の太極名師に日本に赴いて講座を開いて教えるよう招待している。王西安は日本に赴いて教えている陳式太極拳のトップクラスの大師である。中国で改革開放が実施されてからは、彼は何度も招待を受けて日本各地に教えに行っている。三浦方圓は早くからそれを耳にし、王大師の姿をひと目見たいと渇望し続けていた。
1990年、三浦方圓はついにその長年かなわなかった夢を現実のものとし、敬慕する王西安大師と会うことができた。彼は日本の太極訪問団が温県を訪れるのに付いて行き、そこで2週間にわたる強化訓練を受けた。この穏やかな中国の太極大師は、三浦の太極拳の技芸を新たなるレヴェルへと導いた。あるいは大師の知恵を注ぎ込んで自ら悟らせる教え方のためか、手引きされて後の三浦方圓は、突然悟って進歩したかのようであり、太極の会得も過去に比して進歩が神速である。
それ以後、三浦方圓は度々中国を訪れ、毎年河南温県で王西安大師自らの指導を受け、最後に大師の門下生となった。(完結)

陳式太極拳 王西安老師に学ぶ 翻訳2


王西安大師の門弟135人の紹介されている本が、5年の歳月を経て今年の5月に中国で出版されました。
「太極的力量-王西安和他的弟子們」 河南科学技術出版社
 512ページで高価な本です。
 1ページ目に私が掲載されておりますので、関心がある方はお取り寄せしてください。 商品コードTJDL515688 分類:武術 

 「空手道より太極拳に転ずる」 翻訳2

 空手道より太極拳に転じたのは、三浦方圓によれば偶然でもあり必然でもあった。日本が古より武道を尊んでいることが、恐らくは三浦方圓が武術を練習する内在的原因であろう。1980年代初頭、太極拳は既に多くの日本国民に受け入れられており、太極拳を習う日本人は到る所で見られ、太極拳を教える指導員や先生も少なからずいた。
 当時三浦方圓もまだ空手道の世界を散歩する青年であり、中国からやって来た太極拳を理解してはいなかったのだが、それが何故日本という土地で花開き実を結んだのかと言えば、ある種阻むことができない趨勢が日本列島を横なぐりに通り過ぎたからである。そのため彼は究極を求めたいと思った。しかし思想面で生じたこの小さい違いが近い将来彼を太極拳の世界に引き込むことになったのである。
 彼はひと度その道に入ると、もうそこから後戻りすることはなかった。文化的精神的要素を内包する太極拳は、空手道と較べて、三浦方圓というこの教養人の心性によりマッチしたのであろう。彼は太極拳に触れてからというもの、特に太極の深層の内容が分かってから、最早太極から離れられないと感じる様になった。それ以後、彼は毎日何時間かを太極拳の練習に費やすようになり、それは次第に生活の必修科目となっていき、揺るぎないものとなった。たとえ他の都市に出張に行くことがあっても、彼はホテルで練習する。もしある1日にその他の用事で練習できないことがあっても、彼は翌日その分を補ってから帰って来るであろう。このように全くたゆむことのない精神を、彼の太極生涯は伴っているのである。
 自ら苦学する以外にも、三浦方圓は勤務時間外には師と友を求め、道を同じくする人と太極拳の技功・用法を互いに磨き上げ、経験及びそれによって得たものを教え合っている。彼等は一つのサークル的なものを作り、しばしば集っている。このサークル内での影響力もますます大きくなり、名声も一層高まっている。
 実のところ最初は、太極拳を習うのは苦しい道である。各動作を反復して訓練せねばならず、そうして初めてしっかり習得できるものである。それはかなり無味乾燥で、そうした試練を受け入れられずに中途で投げ出し、太極の道を終わらせてしまう人もいるだろう。ある時三浦方圓は正確に要領をつかめず、動作も決まらず、久しく一定レヴェルに達することができず、内心すこぶる苦痛に思い、甚だ途方に暮れ、自分が太極の道を何処まで行けるか分からなくなったことがあった。しかし彼は一度も歩みを諦めたことはなく、粘り強く努力を続け、ようやくその太極人生を成就させたのであった。(次回に続く)

陳式太極拳 王西安老師に学ぶ  翻訳1


王西安大師の門弟135人の紹介されている本が、5年の歳月を経て今年の5月に中国で出版されました。
「太極的力量-王西安和他的弟子們」 河南科学技術出版社
 512ページで高価な本です。
 1ページ目に私が掲載されておりますので、関心がある方はお取り寄せしてください。 商品コードTJDL515688 分類:武術 

 001 三浦方圓 : 「空手道から太極拳へ」
 三浦方圓の身からは重厚で味わい深い書生気質を発散している。生活の中では彼は寡黙な人のようであり、沈着であることが彼個人の人物像となっている。彼の温和で優雅な風貌は、初対面の人に深い印象を与える。彼に会ったことがある人は皆、「詩書を読むと気性も自然に優れたものとなる」という中国の古詩を想起するであろう。見たところ、彼は世と争わず人と共に善を為す風雅な人であり、身に俗気をまとうことが少ないようである。彼と一緒にいると精神面で恩恵を受けることもあり、一陣の春風が顔をかすめたような気持にさせられる。
 今年49歳の三浦方圓は、日本の高等専門学校で社会学を教えている。彼の鼻の上に眼鏡がかけられているのを見ると、更に彼の学識深い風格を感じさせる。大人しく上品であるが、彼の静かな物腰からは自信の力のようなものが滲み出ており、外界の是非によってかき乱されることのない落ち着きがある。それは恐らく人生経験によって練られたものなのか、或いは長い武術キャリアが彼の生命に与えた恩恵なのかも知れない。
 1982年より、三浦方圓は太極拳を学び始めた。中日の文化はその起源が同じであり、中国伝統文化の精髄を内包する太極拳が彼の世界に入り込んで来た時にも、少しも違和感は無く、旧知の友のような親しみを感じた。初めて太極拳に接した時、彼はこの深味のある拳術に魅了され、そこからその奥深い世界に入っていき、太極の深さを探求することになった。それはあたかも一方通行の道のようであり、ひと度踏み入れてしまうと帰り道は無い。彼の人生すべては太極の道を歩んでいて、絶えず前進している。それは楽しみであり、人生もそれ故に度々精彩を放つことになるのである。
 見たところ三浦方圓は文人の大学の先生だが、武術に対しては一本気である。文より武に入り、彼はすべてを思いどおりにでき、豊富な学識を頼みとして武術の精神面の中にまで入っていくことができ、その外側のみに留まることなく、そのごたごたした表象に惑わされることもない。
 太極拳を習う前、彼は空手道の愛好者であった。空手道というこの日本の伝統武術の中で彼は多くの時を過ごした。だが最終的には、彼は中国より伝わってきた太極拳に深く魅かれ、10年以上の間一貫して太極拳を広めようと努力し、心血を注いでいる。 (次回に続く)

陳式太極拳 王西安大師に学ぶ その4


王西安大師の門弟135人の紹介されている本が、5年の歳月を経て今年の5月に中国で出版されました。
「太極的力量-王西安和他的弟子們」 河南科学技術出版社
 512ページで高価な本です。
 1ページ目に私が掲載されておりますので、関心がある方はお取り寄せしてください。 商品コードTJDL515688 分類:武術