2月 6日(木) アーバンプラザ
2月13日(木) アーバンプラザ
2月20日(木) アーバンプラザ
2月27日(木) アーバンプラザ
日頃の稽古で緩めることを教えていますが、だからといってすぐにできるわけではない。
放鬆を意識して稽古を重ねることで、少しづつ身体の様々な部分を緩めることができるようになる。
内気を意識して、放鬆を意識して拳を練っていくしかないと思う。
打拳の道は終始敬という字の外ならない。敬を以て専心に志を通せば達成出来ないことはない。
11月 7日(木) アーバン
11月14日(木) アーバン
11月21日(木) アーバン
11月28日(木) アーバン
「稽古」について
練習は、ただ繰り返すのに対して、稽古は古(いにしえ)に照らしながら行われる。稽古には「套路・太極理論・先人の手本」があるのに対して、練習には長いタイムスパンの一貫した規範がない。
あるいは、練習が試合などを目指した事前準備であるのに対して、稽古はそのつど本番である。稽古は常に全力で行われる。
さらには、目指す先が違う。練習はスキルの上達を目標とするのに対して、稽古はそれを通して精神を鍛え、内面的な向上を目指す。
太極道交会の名の由来は、「真理の道に交わる」ということで、それは「行」であります。(道は必ず行によって証入すべきこと。道元禅師)行は真理(太極)と一体となるべきものであるからこれをまた、「感応道交」といい、ここから太極道交会と命名される。
こうして、自己の確立と自他の和合を目的とした、太極道交会が発足しました。
8月 1日(木) アーバン
8月 8日(木) アーバン
8月15日(木) お盆休み
8月22日(木) 出張のためお休み
8月29日(木) アーバン
稽古日にお弟子さんから、剣術家の鉄山さんの本をお借りしました。太極拳に共通する事柄が書かれていましたので、参考にしてください。
「力を抜いて動く、という言葉の意味は、力を抜いて動くのではありません。力みを抜いて、その抜いたと同時に動き始めるのです」
「細かな注意指導はせず、稽古で自得するものと定めている」王西安先生も太極拳の稽古は、自分で悟っていくことが大切だとおっしゃっています。
「型の修業とは、理論をつくして長年の修練を繰り返さなければならない」太極拳も套路の修業に太極理論を融合させ、繰り返し練らなければ本質を学ぶことができない。
「千変万化する実践に対応するのが型です」
「敵対動作としての「人」を対象とはせず、人を超えた完璧性を求めて稽古を重ねる日々の連続からは上達のひと文字しかございません」
陳式太極拳においても、うわべだけの勝負を争うものではない。太極拳を修行することは「その真理の極致に悟入せんことを欲し、天道の発源を究め、万物太極の理を究むる」ことを目的とする。私の尊敬する山岡鉄舟先生もそこに精神的な悟りを求めたのである。
山口博永と太極拳の縁
(1)私が初めて太極拳に出会ったのは八歳の時でした。
八歳の時、偶然にも映画館で中国のニュース映画を見ました。
その映画の中で一人の老人が現れ、その老人は部屋から出てきて畑の小道をゆっくり歩き出しました。
その歩く姿は憐れで弱々ししく見えました。
しかし彼は広々とした場所に出ると突然ゆっくりと動き始めたではありませんか。
その雄大な動きの姿は先ほどの老人とはまったくの別人で、眼光は鋭く威厳に満ち溢れていました。
私は後に坐禅の世界に入り、坐禅の持つ尊厳ある姿を見た時、なぜか八歳のあの映画の老人の持つ凛々しい神聖な姿を思い出しました。
(2)坐禅の仕方でお師匠様は私にどのように坐禅をしなければいけないか、いかに呼吸を調えるかを教えて下さいました。
坐禅で大事なその教えは[天地同根]の教えであり、それは太極拳で云う「気沈丹田」と「虚領頂勁」がその意味だと、後に理解しました。
お師匠様は以前中国にも留学された高僧で、私はそのお師匠様の教えの下に十年坐禅を修行しました。
十年過ぎたある日に、私はどうしても太極拳の発祥の地に行って実際に太極拳をこの眼で見たくなり、師匠さまに訪中のお願いをしました。
するとお師匠様は「もし太極拳の修行を始めそれを体得したいと思うならば、必ず立派な先生に就かねばならない、そのような良い先生に逢えないようなら真髄を学ぶ事は出来ないだろう」と私に言われました。
このようにして四十年前、当時三十数歳の私は希望を抱いて陳家溝にやって来ました。
太極拳発祥の地であるならば、必ずや優秀な先生がおられるに違いないと確信したからです。
その時の陳家溝は交通が非常に不便でバスで黄河を渡るとき、車の橋はなく汽車の走る鉄橋をバスも走る等して、鄭州から温県まで三時間かけてやっと陳家溝に着きました。
(3) 陳家溝に着いて私の考えが正しかったことが証明され、その目的も達成出来ました。
私は陳家溝でたくさんの素晴らしい先生にお会いしましたが、私と真に心が通じあえたのは間違いなく王西安老師でした。
王西安老師の教え方も素晴らしく、中でも彼の呼吸法、内勁などの教えは秘伝のものであっても、惜しみ無くその全てを彼は私に身体を触らせながら感じ取らせてくれ、内勁と気が身体の中でどのように使われるかもを教えてくださいました。
私は王西安老師のこの教え方で太極拳の力学が理解できて感謝申し上げます。
王西安老師の指導は厳格な中にも親切で、手抜きの無い常に真剣なその指導には心から敬服いたします。
王老師は私に取って師匠でありましたが、練習以外の時はいつも兄弟のように親しんで、二人の関係に微塵の蟠りはありませんでした。
(4)私は十八歳から坐禅の修行を始め、坐禅を通じて、ずっと真理を探求して参りました。
そしてだんだんと霧が晴れるように覚醒してきました。
私はなぜ坐禅をすれば悟りを得て、真理が理解できるのか、それが分かりませんでした。
しかし今は太極拳を学んで、それが分かったのです。
これが大きな素晴らしい発見です‼
太極拳を科学的な力学の面から考えることで、なぜ坐禅によって悟りを得られるのかを知りました。
坐禅は一種の内的な活動ですが、太極拳は坐禅より更に優れた、外的な活動です。
それは姿として観ることが出来、変化を触ることも出来ます。
太極拳は陰陽二極の統一を通して人の尊厳を具現します。
それはあたかも電池と如くで人体の体内が陽極と陰局に分かれて、陽極と陰極を心で繋げてそこに純粋なる知性の明かりを灯すことが出来るのです。
私の禅の老師が私に言った丹田を絞る「気沈丹田」と後頭部を突き上げる「虚領頂勁」とは、即ち私の身体の中が一つの電池となり陽極と陰極が一本で繋がることで自然の絶妙な現象を作り出せる(無分別智)ことだと悟ることが出来ました。
私は今年の2月に日本に来た十人のアメリカ人に坐禅を教えました。その際に私は彼らに腹式呼吸を見せた所、彼らは非常に驚き感動し、それを学びたいと私に言いました。
実はこれこそが王西安老師にここで教えていただいた逆腹式呼吸です。それは坐禅の時吐く息に従って気が下に沈んで行き、それと同時に頭のてっぺんは上に突き上げ始められる。
天地二極は体内に統一され、一本の柱と化します。
天地両極の統一は、開合の運転によって内気の上り下りで調整されます。
太極拳の天地同根の力は坐禅の数十倍で、その勁力は非常に大きいものです。
私たちは普通、物事を考える時は良いことと悪いことに分類します。
しかし天地両極が統一された時は、分別の無い世界に入るのです。
禅ではこれを「無分別智」と言い、太極拳の教えの中ではこれを私たちは「運気」と呼び従の世界観です。
幾千幾万の練習を通して万物は一体であると言うこの統一に達することが出来るのです。
一千年前、中国の有名な禅の老師である宏智禅師が「天地同根、万物一体」と言いました。
私は数十年の修練を経て太極拳の原理から坐禅を証明致しました。
この理を通じて太極拳と禅を世界に広めて行こうと考えています。
現代人が仕事上感じるプレッシャーに因る不安、情緒の不安定は、太極拳と禅が結合することで有効に抑制できると思います。
※文中の写真は、若き日の山口博永老師です。