敬心道場 5月の稽古参加者集合写真
6月 6日(木) アーバン
6月13日(木) アーバン
6月20日(木) アーバン
6月27日(木) アーバン
稽古終了後、暑かったので希望者で一杯飲みました。汗を流した後の一杯は格別です。
初心者大歓迎です、陳式太極拳に興味がある方は、是非一度、敬心道場に体験にいらしてください。
山口博永と太極拳の縁
(1)私が初めて太極拳に出会ったのは八歳の時でした。
八歳の時、偶然にも映画館で中国のニュース映画を見ました。
その映画の中で一人の老人が現れ、その老人は部屋から出てきて畑の小道をゆっくり歩き出しました。
その歩く姿は憐れで弱々ししく見えました。
しかし彼は広々とした場所に出ると突然ゆっくりと動き始めたではありませんか。
その雄大な動きの姿は先ほどの老人とはまったくの別人で、眼光は鋭く威厳に満ち溢れていました。
私は後に坐禅の世界に入り、坐禅の持つ尊厳ある姿を見た時、なぜか八歳のあの映画の老人の持つ凛々しい神聖な姿を思い出しました。
(2)坐禅の仕方でお師匠様は私にどのように坐禅をしなければいけないか、いかに呼吸を調えるかを教えて下さいました。
坐禅で大事なその教えは[天地同根]の教えであり、それは太極拳で云う「気沈丹田」と「虚領頂勁」がその意味だと、後に理解しました。
お師匠様は以前中国にも留学された高僧で、私はそのお師匠様の教えの下に十年坐禅を修行しました。
十年過ぎたある日に、私はどうしても太極拳の発祥の地に行って実際に太極拳をこの眼で見たくなり、師匠さまに訪中のお願いをしました。
するとお師匠様は「もし太極拳の修行を始めそれを体得したいと思うならば、必ず立派な先生に就かねばならない、そのような良い先生に逢えないようなら真髄を学ぶ事は出来ないだろう」と私に言われました。
このようにして四十年前、当時三十数歳の私は希望を抱いて陳家溝にやって来ました。
太極拳発祥の地であるならば、必ずや優秀な先生がおられるに違いないと確信したからです。
その時の陳家溝は交通が非常に不便でバスで黄河を渡るとき、車の橋はなく汽車の走る鉄橋をバスも走る等して、鄭州から温県まで三時間かけてやっと陳家溝に着きました。
(3) 陳家溝に着いて私の考えが正しかったことが証明され、その目的も達成出来ました。
私は陳家溝でたくさんの素晴らしい先生にお会いしましたが、私と真に心が通じあえたのは間違いなく王西安老師でした。
王西安老師の教え方も素晴らしく、中でも彼の呼吸法、内勁などの教えは秘伝のものであっても、惜しみ無くその全てを彼は私に身体を触らせながら感じ取らせてくれ、内勁と気が身体の中でどのように使われるかもを教えてくださいました。
私は王西安老師のこの教え方で太極拳の力学が理解できて感謝申し上げます。
王西安老師の指導は厳格な中にも親切で、手抜きの無い常に真剣なその指導には心から敬服いたします。
王老師は私に取って師匠でありましたが、練習以外の時はいつも兄弟のように親しんで、二人の関係に微塵の蟠りはありませんでした。
(4)私は十八歳から坐禅の修行を始め、坐禅を通じて、ずっと真理を探求して参りました。
そしてだんだんと霧が晴れるように覚醒してきました。
私はなぜ坐禅をすれば悟りを得て、真理が理解できるのか、それが分かりませんでした。
しかし今は太極拳を学んで、それが分かったのです。
これが大きな素晴らしい発見です‼
太極拳を科学的な力学の面から考えることで、なぜ坐禅によって悟りを得られるのかを知りました。
坐禅は一種の内的な活動ですが、太極拳は坐禅より更に優れた、外的な活動です。
それは姿として観ることが出来、変化を触ることも出来ます。
太極拳は陰陽二極の統一を通して人の尊厳を具現します。
それはあたかも電池と如くで人体の体内が陽極と陰局に分かれて、陽極と陰極を心で繋げてそこに純粋なる知性の明かりを灯すことが出来るのです。
私の禅の老師が私に言った丹田を絞る「気沈丹田」と後頭部を突き上げる「虚領頂勁」とは、即ち私の身体の中が一つの電池となり陽極と陰極が一本で繋がることで自然の絶妙な現象を作り出せる(無分別智)ことだと悟ることが出来ました。
私は今年の2月に日本に来た十人のアメリカ人に坐禅を教えました。その際に私は彼らに腹式呼吸を見せた所、彼らは非常に驚き感動し、それを学びたいと私に言いました。
実はこれこそが王西安老師にここで教えていただいた逆腹式呼吸です。それは坐禅の時吐く息に従って気が下に沈んで行き、それと同時に頭のてっぺんは上に突き上げ始められる。
天地二極は体内に統一され、一本の柱と化します。
天地両極の統一は、開合の運転によって内気の上り下りで調整されます。
太極拳の天地同根の力は坐禅の数十倍で、その勁力は非常に大きいものです。
私たちは普通、物事を考える時は良いことと悪いことに分類します。
しかし天地両極が統一された時は、分別の無い世界に入るのです。
禅ではこれを「無分別智」と言い、太極拳の教えの中ではこれを私たちは「運気」と呼び従の世界観です。
幾千幾万の練習を通して万物は一体であると言うこの統一に達することが出来るのです。
一千年前、中国の有名な禅の老師である宏智禅師が「天地同根、万物一体」と言いました。
私は数十年の修練を経て太極拳の原理から坐禅を証明致しました。
この理を通じて太極拳と禅を世界に広めて行こうと考えています。
現代人が仕事上感じるプレッシャーに因る不安、情緒の不安定は、太極拳と禅が結合することで有効に抑制できると思います。
※文中の写真は、若き日の山口博永老師です。
山口博永老師は、3月に訪中した際に河南省テレビの取材を受けました。
その件で4月3日に河南省温県から発信されたTAIJI.NET.CNの掲載文を、横浜道交会の中村さんが翻訳して下さいました。
以下はその訳文です
太極拳を学び、充実した人生を円満に生きる。
……………………
日本の老人が語る半世紀に及ぶ太極拳の因縁話しを聞こう。
(1) 2019年3月の末に、王西安大師の弟子である、山口博永が10数名の弟子を連れて日本から温県を訪れました。
それは高級研修班として王西安大師から、太極拳の指導を受ける為でした。
山口博永は今から40年前の1979年に河南省武術協会を一度表敬訪問したことがあります。
その御縁で1981年に王西安大師と正式な師弟関係を結びました。
その後は彼は王西安大師の指導の下、本格的な太極拳の修練が始まりました。
彼は毎年春には陳家溝を訪れ、王西安大師の下で太極拳の造詣を深めていきました。
そして、山口博永は日本に帰国した後も中国で学んだことを弟子達に伝え、その結果、多くの日本人が彼の積極的な指導のもとで太極拳を学び始めました。
ところで山口博永は出家の人で、禅の道に参じていることから、太極拳の練習の合間には、坐禅と太極拳の人体力学の方面から、その関係について王西安老師と興味深く話し合いをしました。
この度は、山口博永の太極拳歴40周年を記念して 王西安大師が彼に
“ 太極禅人 ”
の称号を与えると共に、弟子の申長明に命じて自身の練拳の姿を描かせ、その横に自らの言葉を添えて署名をし、山口博永にその書画を贈呈いたしました。
これは二人の師弟関係が40年の長きに渡る強い絆の賜物であり、又その深い友情の証でもある。
………………………
(2) 過去に太極拳が彼の心に刻む出会いと、ある朝の思い出。
……………………
幼少時代の山口博永は、決して一杯の芳醇なお酒の味を味わうことは無かった。
幼少の彼は温かみの少ない環境に育った。
彼は人の情の移り変わりの激しさや、思いやりの少ない世の中のありさまを早くから感じとり、幼な心にも、自立とその強さを求めることが課題となっておりました。
八歳のある日、彼は偶然にも映画館で中国のニュース映画を見ました。
その中で髭の真っ白な一人の老人が、ふらふらと田んぼの畦道を歩いて行きました。
そしてある広々とした広場に出ました。
その時です!
なぜか老人の背筋は伸びて雄大に動き始めたではありませんか!。
その時彼はそれが太極拳だという事をまだ知りませんでした。
ただ映画の中で、なぜあの貧弱に見えた老人が、突然威厳と尊厳を併せ持った人間に変身したのかに驚き、子供心にも人の気高い姿に驚くと共に、自分もいずれそういう者に成りたいという想いを強く心に刻み付けました。
見終わった後も、いまだかつて味わったことが無い深い感動に満ち溢れていました。
更に月日は流れて、いつしか彼の意識の中には、いかにすれば人間としての尊厳および自由と平安を獲得出来るのかが最大の目標となっていました。
年月は過ぎて、山口博永も立派な青年と成長していきました。
彼は、心の安らぎと自由を現実の中で追い求めていました。
そしてついに18歳にして出家をし、禅の道を学び始めたのです。
更に月日は過ぎて、博永28歳の時に禅の師匠様の元に一人のカナダ人が訪ねて来て寺に滞在しました。
カナダ人は毎日師匠様について坐禅を学んでおりました。
ある日の早朝にふと見ると
カナダ人の彼は寺の境内の一角で一人運動をしているではありませんか、しかしその雄大な動作に山口博永は釘付けとなり、なぜか懐かしさを感じ始めました
「それは何ですか」尋ねると、カナダ人は「太極拳です」と答えました。
ついに出逢えたのです。
山口博永は呆然として、「それを太極拳と言うのですか‼」と再度お尋ねをします。
まさに8歳の時から自分がずっと夢にまで捜し求めていたのが太極拳と言うものであったのか!
彼は云うまでもなくその日から、このカナダ人について熱心に太極拳を学び始めました。
(3) それから一年後、彼は日本を離れてインドに行きましたが、既に山口博永の心深くに太極拳の種が植え付けられていましたので、
インドからの帰路更に太極拳を深めるために山口博永は太極拳の師を求めて台湾に渡り5年間基礎修業を積みました。
その後台湾で、中国の陳家溝が太極拳の発祥の地だと知った彼は、次に中国に渡り太極拳を学ぶことが最大の目標となったのです。
そして山口博永は、太極拳の真の正道を求めて、海を渡り山河越えて遂に、中国を訪問しました。
1978年、日中の国交回復により、両国の民間の友好団体の往来が始まったのです。
それを機に山口博永も民間友好団体に加わる事で訪問が実現いたしました。
この時に行ったのが中原の省都、鄭州であった。
鄭州では盛大な歓迎会が催され、武術の故郷である鄭州の達人が多数参加し表演をしました。
その表演会なかでも、気持ちよさそうに伸び伸びとした太極拳の表演は彼の心を揺り動かし続けた、特に一人の優れた中年の武術家の堂々とした太極拳の表演は彼の血を沸き立たせました。
彼は太極拳の根源は正にこれだ‼と確信し、これを極めたいとの思いを更に強くした。
1981年、山口博永は再度日本の友好団体の一員として陳家溝を訪れ、太極拳の故郷の武術家達と向かい合って交流した。
その時に訪れた友好団体のために、王西安大師が小学校の校庭で炮捶を表演しました。
山口博永はそれを見た瞬間、感激し心が奮い立った。
「この套路を表演している老師は三年前に鄭州の歓迎会で見た老師ではないか!」山口博永は感動し急いでビデオカメラを取り出して王老師の表演する炮捶の全ての套路を撮影した。
陳家溝から帰った後も山口博永は毎日王西安大師の套路のビデオをみて厳しい練習を繰り返した。
しかし練習をすればするほど戸惑いも深まった。
1986年、山口博永は願いをかなえるため陳家溝に行き、正式に王西安大師に師事し、その後王老師の下での数十年に渡る永く厳しい練習が始まる。
(4) 太極拳を学び、人生をやり遂
げ、涅槃に入る。
………………………
年月はいつしか過ぎ去り、山口博永の太極拳の技法は、王西安大師の長年の心を尽くした指導により、日増しに高まり、今では日本で屈指の太極拳の指導者となり、そして今も太極拳を伝え広めるべく歩んでいる。
ところで中国での練習の折、山口博永は王西安大師と共に度々お茶を飲みながら禅と、太極拳の関係を論じ合いました。
結果は、禅道は自然なる随流を重んじ、同じく太極拳も動作の中に従を求める。
禅道と太極拳は、その名前は異なっても、行き着く所は同じであると山口博永は気づいた。
王西安大師も、自然で柔らかい太極拳が一定の高見に達する時、僧侶が言う「禅」になると言う。
僧は寺で修行し、その求めるものは心の安寧であり、静を以って解脱を求め、自己を完成する。
太極拳の追い求めるものも人生の大境地であり、動中の中に静を求め、更に深い安らかさと大きな集中を求める。
修行を積む中で分かってくる事は、太極拳の太極の気象と坐禅の体内力学が全く同じであるということです。
坐禅は、上陰下陽とし、太極拳は、上虚下実とする。すなわち坐禅を修行することは、太極拳を練習することと同じで、人格を高め修養を積むことにある。
………………………
(5) 山口博永は今も、彼は毎日坐禅を行い、太極拳を練習し、それらは山口博永の生活の最も重要なものになっている。
彼は毎日五時間ほど練習をするなかで、20分を坐禅、40分を太極拳の練習にあて、その静と動の中で人生の真諦を深く探り感じ取っている。
彼の太極拳はもう既に骨髄にまで入りこむと共に、太極拳は自己の人生を更に円満にしていると彼は言っている。
今では彼にとって、陳家溝は第二の故郷になっている。
彼は自分の余生の中でただ一人太極拳を楽しむだけでなく、多くの人が太極拳を行じて心の安らぎと喜びを得られるように、世界に拳禅一如の文化を広めて行きたいと考えている。