敬心道場が目指すところ

 私の尊敬する時代をこえた師匠は、幕末の山岡鐵舟先生です。稽古が終わったあとに弟子たちに以下のような訓話をしております。

「剣や禅の精進によって、人間は宇宙の一分子であり、天地同根であることがわかってきたら、われわれは我を去らなければならない。我を張り滞ることによって、天地の調和が崩れていき、混乱が始まる。滞りはすべて我執から起こっており、剣法は結局その我執を脱却する修行の一つなのである。

 この心境を得ることができれば、自由闊達、融通無碍、自在に剣を操ることができるようになる。技の修練と精神の錬磨は常に表裏の関係であることを忘れてはならない」

 敬心道場においても、太極拳をつうじて最初は武術でも健康法でも結構です。さらに精進していくと、太極拳はひとつの手段であり、太極理論を身をもって体得することの大切さが理解できるでしょう。

 鐵舟先生の言葉を引用するならば「天地同根一体の理を悟るためにある」ことを目指しております。

2015年に掲載したブログより

鐵舟先生の発心

山岡鐵舟先生の幼少期

 観世音菩薩に篤く帰依していた母に、鐵太郎が手習いで「忠」「孝」の二文字を習っていたので、深く考えもせずある時、「母上は忠孝の道を踏み行っていらっしゃるのですね」と質問したところ、「母はお前に申し訳ない。良きお手本になれない母を赦しておくれ」と目に大粒の涙が浮かび、頬を伝ったのを見て、母のが鐵太郎の心に生涯、精進する母上をお手本として、鐵舟自身が修行するきっかけとなった。

 また、高山郡代の父は、幼少期の鐵太郎に「人間を創るのは剣と禅だ。これに集中せよ」と教えをうけた。父はさらに人間は武だけでは偏ってしまうと思い、高山に弘法大師を遠祖とする入木道(じゅぼくどう)五十一世の岩佐一亭に書を学ばせ、気骨ある人間を育てることを考えていた。父に敬いをもつ鐵太郎は、生涯「剣・禅・書」を修行するきっかけとなった。

 母のと父の敬いにより、発菩提心(発心)がのちに剣禅一如を極め、命をかけて江戸の無血開城を成し遂げる大人物になっていくきっかけとなる。

人間は何事も最初の発心が大切になる。

上求菩提  下化衆生

太極道交会も自己の確立 自他和合を目的として会を発足しました。

 

 

 

事理不二の境地を目指す

江戸時代前期の禅僧沢庵という方をご存知でしょうか。剣豪の柳生宗矩に「不動智神妙録」を与え、柳生剣法の大成に大きな影響を与えた方です。

沢庵の「太阿記」の冒頭に、次のように書かれています。

「兵法者は、勝敗を争わず、強弱に拘らず、一歩を出でず、一歩を退かず。敵、我を見ず、我、敵を見ず。天地末分、陰陽不到の処に徹して、直ちに功を得べし。」

この冒頭の句に「勝敗を争わず、強弱に拘らず」というのが兵法の根本だという。つまり、勝つことと負けることに心が執着し、勝負に心がとどまるために、気の流れをさまたげることになり、正しい武の精神ではなくなるといっている。

また、「天地末分、陰陽不到の処に徹」するとは、相手と自分を超えた根源的な天地自然の命を感得することにほかならない。

さらに沢庵は、修行には二つあると言う。一つは理の修行、もう一つは事の修行。理の修行というのは、心の修行、事というのは技の修行である。

この二つを修行していかねばならない。片方だけではまったくだめであるという。事理不二の境地を目指せと説いています。

太極拳の修行においても、深く極めていく段階において、まったく同じことが言えます。

私たちは、太極拳を日々稽古しながら、何を学び、何を伝えていくべきか。

私の尊敬する先人の山岡鉄舟先生、師匠の山口博永道長も剣(拳)禅一如を極めております。

私もその境地に少しでも近づけるように、事理不二の境地(天地同根 万物一体)を目指して精進していきたい。

人は錬磨による

日本の曹洞宗の開祖、道元禅師は、「我が身愚鈍なればとて卑下することなかれ」と説いています。

意味は、自分自身の能力が愚鈍であるから駄目であると、自分自身を卑下してはいけないという。どんなに愚鈍であっても修行すれば必ず仏道を得ることができると言っています。

努力するのと、怠けることによって遅速が生ずるだけである。努力するか、怠けるかを定めるのは、志があるかどうかで定まる。その志を立てるのは無常を切に思うからであるという。 「今ここ」 無心に取り組む意欲が大切である。

愚鈍な私は、いつもこの言葉を思って、日々稽古しています。つくづく禅も太極拳も書もまったく同じ事だと思う。

つまり何事も道を実現させるには不断の修行が必要だということです。

今日坐禅をしたから明日はやめる。今週やったから来週はやめるというのでは道を得ることはできない。

太極拳も書も、うまいへたは関係ありません。器用な人が演武したり字を書くよりも、不器用な人が日々一生懸命に努力して、演武や字を書いたりした方が、とても味わいがあり、その人の風格がにじみ出て人に感動を与えます。

不断に絶えず行じてゆく時、必ずそれは達成できる。

時間をかけるということは恐ろしい。どんなものでも時間をかけねばならない。

人間の身体は霊妙なはたらきを持つ。意識によって身心一如となる時、身体もまた光明を放つに至る。

愚鈍な私は理屈ではなく、何事も日々身をもって実践して行きたい。

 

 

 

 

オンライン稽古

新緑の美しい季節となりました。

敬心道場の皆様、大変な時期ですが、元気でお過ごしですか。

この時期、自分だけでは中々稽古できないという方のために、オンライン稽古に踏み切ることに致しました。ギガの容量の問題や、環境設定等の問題があるかもしれませんが、会員の方で視聴できる方は是非ご覧になってください。

毎週稽古日の19時~20時の1時間

詳しい事を知りたい方は、三浦までご連絡ください。

自彊不息(じきょうやまず)

皆さん、連休は如何お過ごしですか。コロナの感染拡大を防止するため、ステイホームで過ごしていることと思いますが、こういう時こそ、自分で稽古する習慣を身に付けてください。

天の働きは健やかで一日も止まない。それに倣って「自彊して息まず」、自ら強く励み、努めて止まないことが大切です。

自分を活かすのは何といっても自分自身であり、他の誰かが助けてくれたとしても、それはきっかけにしかならない。

普段の練習会が出来ないからといって稽古を怠っていれば、せっかく学んだことも忘れてしまいます。

ゆえに、自分で出来る範囲で、この機会に稽古する習慣を身につけてください。継続して癖付けをしていくことによって、太極拳を生活の一部にすることができる絶好のチャンスにしてください。

2017.3 王西安大師

 

天行は健なり。君子もって自彊して息まず。

「易経」乾為天より引用

稽古における気づき

姿勢ですが、前後左右に傾くことのないように、首筋を立てて、股関節をゆるめておくことが大切です。(上虚下実)

両足の重心移動をはっきりとさせ、股関節をゆるめることで発生する、地面からの反発する力を利用して動く。上手く表現できませんが、要は自分の力で引っぱろうとしないことです。

各動作の終わりは姿勢を正し、全身の関節や筋肉をゆるめる様にしながら静かに丹田に気を沈めます。(太極の気象にかえる)

すぐに次の動作に急がず、あわてず、落ち着くまで待ちます。この時は、やはり首筋を立て、しっかり立ちながら、ゆるめるべきところをゆるめます。

この「太極の気象」というのが、他の拳法にはない、太極拳の特徴にもなります。

次に眼法ですが、動作そのものに成り切って動くために、眼の位置が大切です。

集中力にもつながるのでしょうが、引くときには本当に引くつもりで、押すときには、本当に押すつもりになって押すのです。そこに集中します。これを「意を用いる」と言います。眼は自ずとその方向にあります。右に押しているのに、顔は左を向いていたら、それこそよそ見です。

各動作、形にはそれ自体、用法としての意味がありますので、そこがわかると、自然に形や眼法、意の用い方が正しくなります。只、形をなぞるのではなく、その内容を理解して動くと良い稽古になると思います。

最後に套路についてですが、普段の稽古においては新架、老架、混元のどれを稽古しても結構です。自分の年齢や体力に応じて、無理をしないで稽古してください。

套路をいくつも覚えるよりも、一つの套路を繰り返し鍛錬して、虚実、開合、太極の気象、意念、放松等を身体に浸透させていくことが大切だと思います。

先人たちが脈々と残してきた形の中に脈打っているもの、陰陽の変化であり、動静のバランスであり、絶対的というべき「太極理論」を身をもって実践していくことが核心だと思います。

お互いに精進していきましょう。今ここ 無功徳常精進

 

 

套路における要求

・各動作の点検をしながら稽古する。(たとえば肘・肩にこわばりがないか。手と足の協調が保たれているか。肩や胸にりきみがないかなど、自分の悪い癖を修正する。)

・意の力をもって動作を導く。(たとえば相手がいるつもりで、指先に意識を集中し、自然に体が動くような状態。技を決めた常態のときに腰が引けていないか、足は円とうになっているか。眼法など)

・足のつけ根(くわ)を抜く、つまり股関節をゆるめ、落とす力により動作を連動させる。

・首すじを伸ばし、くわを抜き膝に体重をかけることにより、丹田に気が落ち、非常に動きに重たさを感じ、自分自身も充実感を感じる。ただし、くわを抜き、動作を導く場合、かなり足腰を鍛えておかないと最初はきついと思います。

自分自身のレベルに応じて課題を見つけて、日頃から稽古してください。

平成3年お便り「敬心」より掲載

何の為に太極拳を学ぶのか

あなたならこの問いにどう答えますか?各自いろいろな目的があって良いと思います。

私は、太極拳は修行の道だと思っています。強くなりたいということもありますが、それよりも太極拳を取り組むことそのものが、人生における修行だと考えます。

敬いの心がなければ太極拳を学ぶことができません。これは我欲ばかり先に立ってしまったのでは、自然な動きなどできないということです。

何事も我を出せば我におぼれてしまいます。いちばんいいのは、無心になるということです。

理にかなった技の仕組みのことを、古来、武道では理合(りあい)と呼びます。動きが理合にかなっていれば、おのずと個々の技に対するこだわりは消えていきます。技が消えることによって、初めて相手のどんな動きにも臨機応変に対処することができます。(五陰五陽)

ここに至ったとき、太極拳の武術としての真価が初めて発揮されるのです。

また、武術(太極拳)というものは、日常生活から逸脱した特別なことであってはいけません。

ただ道を歩いているにしろ、そのときの心のあり方、姿勢の保ち方、機を見て敏なる感覚などが、すべて理合の表れであり、またそう努めることが修行であるわけである。

理合にのっとれば、そこに調和(中庸)が生まれてきます。姿勢、身のこなし、人との接し方、言葉使い、そうしたあらゆるものに調和が宿ります。強い弱いでなく。自己が常に最善の状態でいられるということ、それが武術(太極拳)です。

 

その場、その場において最善であることが修行です。ですから、太極拳の修行に終わりなく、一生涯、向上心を持ち続けることができるのです。

平成3年7月お便り「敬心」より掲載

太極拳は悟りへの道

大自然や大宇宙の法則を科学や哲学、宗教とするならば、武術の神髄もまた大自然の法則を技法にあらわしたものである。真正な武術はすなわち宗教・哲学・科学などと帰するところ同じものである。

もしも口でいうように真実の道にかなったものならば、修行年数がふえるにつれて技術と共に精神も成長していくはずである。

長きにわたって修行を続けている者が、武術や芸術を名声・財・権力などを求めるための手段にしているとしたら、すでに道を口に出す資格はない。

道教でいう道とは「己を大自然に合わせ陰陽の調和をたもち、四季や自然のリズムと同調した生活を送り、大自然を愛し大自然と一体となって生涯を送り、長寿をまっとうして自然死をとげる」ことである。

少なくても理論や形式だけで実践のない教えや新興宗教よりも、静動合致の武術の方が完全なものといえる。

「悟り」とは、「限りなく素直な心(敬いの心)になること」であるとともに、「その素直な心を決して意識しないで行動できること」である。

初心にかえり日々研鑽すべし

平成3年7月のお便り「敬心」より掲載