1979年中国河南省の鄭州において陳氏太極拳第19代伝人の陳小旺老師に会う。
老師の表演見て、強い衝撃を受ける。
第一次陳家溝太極拳学習団1981年
1981年陳小旺老師より直接新架式を学ぶ。直接習った最初の外国人であった。
第二次陳家溝太極拳学習団1982年
中央の看板の前、山口博永老師、その左側に陳小旺老師
後列左から4番目、王西安老師
前列左から陳小旺老師、3番目が朱天才老師、4番目が陳正雷老師、5番目が王西安老師、陳正雷老師の後ろに山口博永老師
師匠の山口博永老師は大陸に渡る前、1975年から約5年くらい台湾の武壇にて八極拳の達人、劉雲樵大師、高弟の徐紀老師、黄偉哲老師、戴士哲老師にも学びました。
劉雲樵大師
お酌の習慣が無いので、無意識に左手を構えている劉大師。
漫画「拳児」、映画「グランドマスター」で有名な台湾国術界史に輝く巨星、武壇創始者、劉雲樵大師。
劉雲樵高弟の徐紀老師より、陳家太極拳を学び、その後、1979年に中国大陸に渡り、河南省の鄭州において陳氏太極拳第19代伝人の陳小旺老師に会う。
そして陳家溝にて、最初に直接習った外国人として、毎年訪中し、太極拳を禅の修行のごとく黙々と稽古を続ける。
当時、マーシャルアーツという格闘技の雑誌に山口先生が掲載されたとき、「日本における陳式太極拳の第一人者」と紹介されていました。
この時期に城西支部に籍をおいていたお陰で、澤井先生に出会い私の武術に対する考え方も大きく変化してきました。
その一つが「立禅」で中国の武術には禅を立った状態で行う立禅というものがあり、この立禅を組むことによって、内面の力を強力にし瞬間的な爆発力を養う稽古でした。
そして「這」(はい)は、自身の身体を防御と攻撃の両面で安定させるための稽古で、手は虫の触覚のように相手の攻撃を察知し、無意識に攻防できるようにし、足は泥の中を歩くようにイメージします。見ている人が分からないくらいゆっくりと中腰で動いていきます。
ある時期から組手の稽古をしていると、相手が顔面を蹴ってくる瞬間に無意識に身体が反応するようになりました。この頃から武術における気の力を信じる様になり、より一層稽古に取り入れる様になりました。
1981年はまだ山田道場が開設して3年目ぐらいで、初代指導員の大西靖人さん(後の第15回の全日本チャンピオン)が毎日のように組手の稽古をしてくれていました。大西さんは身長180センチ、体重90キロぐらいの大柄な方でしたので、私も大きい相手に対する組手にとても自信がもてるようになりました。
当時の稽古の中で思い出に残っていることは、20人がその日に稽古にくれば、20人全員と組手を行うことでした。1人1分のスパーリングでも20人いれば20分スパーリングを行います。
また、大会前の半年間は極真ルールの組手を中心に行い、大会後の半年間は金的にパット、顔面に防具を着けて、急所を蹴っても、顔面を殴っても良いというルールで稽古を行なっていました。
その当時、組手になると、太気拳の創始者の澤井健一先生が見にきてくださり、いろいろとアドバイスしてくれるようになりました。
次回に続く
昨日、書店で「月刊 秘伝」という武道、武術の雑誌を読んでいましたら、大学時代に籍をおいていた極真空手城西支部の山田支部長の記事が掲載されておりましたので、懐かしくなりブログを掲載することにしました。
記事にも掲載されていましたが、1981年頃から道場に澤井先生がいらしてくださり、私たちも2時間の稽古の終わりに「這」の稽古を行なう様になりました。
当時の山田道場はとても斬新な稽古法を導入しており、ボクシングのようなスパーリング、蹴りと突きのコンビネーション、アウトローという奥足外側を狙う下段回し蹴り、ウェイトトレーニングなどを取り入れてました。
のちにこの極真会館の城西支部が「チャンピオン製造工場」の異名を轟かせるとは、このとき思ってもみなかったです。
次回に続く
陳式太極拳の稽古において、三つの段階、三種の勁の違い、それぞれの段階に応じた三種類の稽古方法の科学的原理のことをさします。
初心者は、套路を中心とした「明勁」の稽古から入り、招熟段階といいます、つぎの段階になると気で套路を導くような「暗勁」の稽古になります、この段階を憧勁段階といいます。最終段階はこの両方が自由自在に使える「霊勁」の稽古はいります、この段階を神明段階といいます。これらの段階を必ず順序立てて経ていかなければなりません。
初心者は招熟段階といって、太極拳を稽古する第一段階で套路をきちんと覚えることをいいます。具体的にいうと陳式太極拳の手法、身法、歩法などの拳術套路の一つ一つの外形動作を正確に覚えて熟練することを指します。
「明勁」とは初心者にもともと備わる剛質な勁のことであり、套路の動作を通じて外形に表現され、見てとれる外形の段階です。
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