四国遍路の途中、宿に着いて間もなく、突然友人から電話が有って、娘が今アスペルガー自閉症なのでどこか良い施設をさがしているが、永井さんの知人で施設の職員かワーカーをやっている人がいたら教えてほしいと言う内容の電話があった。その友人は他にも何人かの知人に相談しているようなので、そのうち良い施設がみつかると思う。
ところがその電話の際に、別の出来事として友人のお姉さんの元旦那があと余命1ヶ月という話しをしてくれた。私はその元旦那とは若い頃に一度会っただけの人だが、息子を引き取ったのはいいが、その息子は統合失調症の病があって、結局その元旦那本人は自分の思うような生き方が出来ずに、荒んだ人生を送っていたと聞いていた。
人生はそれぞれ多難である…その夜宿で寝ていた時にふと思いいたった事があった。“これで元旦那の彼も楽になるのでは”と、とその時同時に、私の友人で以前自死した彼にも思いが至って、彼も楽になったのかと思ってしまった。人はそれぞれの心の用いかたで、人生観が決まると考えていたが、巡礼中の今は何となく客観的な見方で物事を考えられるようになっているようだ。自死した友人の人生は地獄の苦しみではなかったかと考えていた私自身が、苦しかったろうなと同情して、私自身も苦るしかった。でも今は、人は自分の人生が地獄と考えてしまったからこそ苦しいのでは…。死ぬことでこの苦しみから解き放たれたかった等と…、何となく分かったような気持ちになってしまう…。
普段の生活からはこのように達観した考え方は出来ないだろうが四国遍路のおかげでただ歩く生活だからこそ、深く思い至るのかもしれない。遍路のおかげで今まで私自身の苦も、私の思い込みからの自縛だったと分かり、その縄がほどけていくような安らぎを今は感じている。友人の自死も母の認知症も家族の問題等も一斉に溶け始めて心が軽くなってきているようで、巡礼に感謝である。