ところで、 剛(+) 柔(-) 相済(=) は 無(0) を学ぶことであると、表現すればとても分かりやすいとおもいます。無とは0、《 0 》とは矛盾(陰陽)の統一の《 一 》根元の一気、《 太極 》であります。この 一 は、万法帰一の 一 でもあり、私たち人間も含まれた万物一体の一元的姿、であるのです。
拳理に《 吾等の身体の中にはもともと自然に陰陽開合の理、が存在しており、これに逆らうことは出来ない 》と解かれる所以であります。 - + = 0 ・ この暗示的数式で陰陽太極の理は解き尽くされており、太極拳の実践的原理の目標を 《 矛盾の統一 》 と解きます …
《 五陰(-5)五陽(+5)が太極(0)の妙で、これはかたよりがなく妙手と呼ばれ、太極空と成し混然とした境地である 》…
この一つの働きを《 一 運 一 太極 》と言うのです。
私たち人間の日常は陰陽矛盾で有る為に … 人生の目標はバランスの統一にあるのです。
陰陽の統一と陰陽の矛盾 ー 矛盾も統一も陰陽という〝素材は同じ〟であることに注目して下さい 。
人生とはその時、その場の陰と陽のバランスにおいて ー〝 正 邪 〟異なるのです。
正と邪 損得、良し悪し、苦楽は別物ではなく、両方の素材はおなじなのです。
それ故、《 人人 各居 一太極 》といえども 《修せざれば現れず 証せざれば得ること無し》ということになります。
五層工夫を説明しますと、練習の初めは 1陰9陽 から始まります。アンバランスを承知して始めねばならないのです!太極拳の動作でアンバランスのことを ー こだわり・こわばり ー と申します。
〝こだわり〟とは心の執着! … 私たち日常の習慣として 〝 物と我、自と他 〟からくる 差を〝 分別する 〟事がこだわりの元凶であり、それが自身の自己防衛となって、こだわるのです。こわばりとは日常の習慣で人体的な癖をいいます。
このように、陰陽二気がはなはだしく矛盾を起こしているところから、1陰9陽と表現するのです。
太極拳の五層の段階とは、陰陽矛盾から始まり、形の熟練によって内の気を調え貫通させていく身体の法であります。
(体と呼吸と心の一つが調えば他の二つも調う道理から心身の鍛錬の法といわれる)。
さらに、気は内外の合一をはかる力を持ちます。
この五段階の過程を完成させて行く筋道を次のように、2陰3陽、3陰7陽、4陰6陽、そして5陰5陽と表現するのであります。
それは 太極 に至る道を解くのです。
陳老師の云われた ー どんなに練習をしても師からのアドバイスが無ければ斜め上がりに進歩はしても、次の段階に行く事は出来ないとは ー 太極拳は形の練習ではなく形はあくまでも内勁(気)を促すためにある ー ということで、内勁の無い太極拳は太極拳ではない! 又内勁が貫通すれば、外形は意のまま(千変万化)になるということであります。これは三層以上の段階であります。陳老師は私の陰陽矛盾、体のこわばり即ち外形を直したのではなく内勁が貫通するように指導してくださったのです。
やはり 正師 を得なければ 道 の成就は ありません。
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第27章 拳理 その1
拳理
帰国後に友人が『あなたが拳の理を聞いた時の喜びようが尋常でなかったことが想像できる。』 と、言ってくれました。
それもそのはずです ー
陳老師が私に説明して下さった拳理は、拳禅一如の理、いや禅からみて禅そのものであったのです! ー
陳老師から 〝 人人各居 一太極 〟(人は全て本来太極にある)
この理を聞いた時 ー 私が八歳の時に見たあの太極拳の、あの感動の真意が理解できた瞬間でありました …
遂に見つけた!というよりもやっぱりそうであったか!という確信を得てうれしかった。
私は拳理の説明を聞きながら嬉しくなって、陳老師に禅問答を試みました
一 結局のところ!『太極拳とはなにか!』 陳老師曰わく 『剛柔相済』 問う 『ならば、太極拳は何を学ぶのか!』 陳老師は我が意を得たりとばかりに、表情を和ませ、『無に帰ることにある』 一 うむッ 見事 !さすがに陳家の嫡男、髄を得たり ー 。
(数年後に私達が作った教本を陳老師がご覧になって、私に一緒に拳理を研究したいとおっしゃったのは、やはり通じるものを感じ取られたからでしょう)
拳理に《 万有の展開は陰陽二力の作用であり、人もまた然り、それ故に太極拳を学ぶとは陰陽の理法を学ぶことである。》と解かれてあります
まず、この陰と陽の名称は符号、記号であって、相対の関係と
その作用すべてを表し、陰陽とは剛柔や開合と言っても良いのです。
数式の - + も、同じ意味をもつものであります。
ではなぜ、このように符号化するのかと申しますと、人の意識作用は言語に反応しヒステリックになるため、物事の探求には適当ではありません。
言語は感覚器官である五官(眼耳鼻舌身)の領域を超えた深層の探求には不向きなのです。 ゆえに科学者が原子の世界を垣間見るのに使う数式もこの意であります。
第26章 陳氏太極拳 十九代伝人 陳小旺老師 その5
『 その時の約束で、 それから二十五年間毎年行くことになるとは … 』
私達は帰国後、陳式太極拳を学ぶ会を設立してみんなで練習に励みました。そして多くの仲間を得て二次訪中団は二十名の団体で行くことができました。
陳老師も日本での太極拳の発展を喜ばれて、一次同様に熱心に御指導いただきました。
そして帰国後、私は第三次訪中までの一年間、一日六時間の練習をこなし、特に二次の際に受けた身法の要求を全て成し遂げたという自信を持って三次訪中に臨みました。
ところがです…三次訪中に、またしてもおなじ所を手直しされてしまいました。今回は自信満々であったので、いささか感情的になってしまった!というのも、同じ箇所を前回の要求とは異なりまた別の要求で、しかも初心者扱いされて気持ちが切れてしまったのです。
《それでは私の一年間の練習は無駄ではないか!なぜ前回に今回の身法を教えてくれなかったのか!私は武壇で基本的なものは出来ている自信があったし、また陳老師自身も私の老架式の動きを見て、良い評価をしてくださったではないか!》
といった慢心めいた不満でありました … そして《結局!外国人には本当のところは教えないのか!》という疑念まで抱いてしまいました。
陳老師はそれに気づいてかどうか、次のように説得されました
『私は毎日八時間の練習をします、しかしどんなに練習をしてもその時々において師からの適切なアドバイスが無ければ見当違いな方向に進歩はして行くが、それでは伝統的な段階に行く事は出来ない』そう言いながら次に伝授してくださったのが五層の功夫の拳理でありました。
第25章 陳氏太極拳 十九代伝人 陳小旺老師 その4
さて話しは戻って
私達第一次訪中団の練習内容は新架一路。この一路八十三式を一週間で覚えるという過酷なものでした。練習開始当時には、新架式の複雑な動作がなかなか理解ができず四苦八苦していたら、陳老師が見かねて老架式に変えますか?と云われた。しかし既に新架式の魅力にとりつかれていた私達でしたから、引き続き新架式の指導をお願いしました。(なぜ最初から新架式なのか!?
陳老師は二年前、私が演武をした老架式を覚えていて下さって、〝ほとんど陳家溝のものと同じである〟と評価して下さっていた。そこで次に学ぶのは新架式という事になったのです。)
私はどうしても覚えて帰りたかったので必死でした。
朝は四時から夜十一時まで昼食も抜きで練習を続けました。
しかし中国友好協会側からは夜は京劇やバスケットの試合など夜の観光を計画して下さっていたようでしたが、私達はそれらを全て断って練習に励みました。それをみて陳老師は『何で君たちは夜間、観光に行かないのか?』と云われるので『私達は練習をしたいからです!』と云うと、陳老師は、〝それでも行こう〟と云うかと思いきや、笑いながら『その気持ちは良く分かる、そうだそうだ!』と言って深く理解を示してくださいました。
陳老師は外国人に初めて教えるといっても、陳氏太極拳の伝統を守るという立場上、例え政府の命令と言えども、自身にもプライドがあったでしょう。
友好第一だけでは戸惑いがあったのも事実でしよう … ところが 怪我の巧妙とでも云うべきか!覚えの悪い私たちの 〝あまりの熱心さ〟 に心を開いて下さって、その後は前にも増して懸命に指導をして下さいました。
おかげで ようやく形だけは学び終え、帰国の日も近づいたころ、共に打ち解けあって帰国後の私達の練習にまで気を配って下さり、難しい動作の8ミリ撮りも許可してくださったのです。
しかし8ミリ撮りは上層部から禁止されているそうで、私達の部屋にまで来られて難解な動きを撮らせて下さいました。またその折り陳老師は少し寂しげな顔つきになって、『これからも来るのか』と聞かれたので私はすかさず、年一回は必ず学習に来ることを約束をし、陳老師も笑顔になって同志のように打ち解け合ったことでした。
第24章 陳氏太極拳 十九代伝人 陳小旺老師 その3
さて日中両方の演武が終了し、みんなが外に出て記念撮影を撮る事になりました。
がー 外に出たその時、ついに例の小柄で横柄な酔拳先生が我々に向かって ー『 始めようではないか!』ー と体に似合わないドスのきいた声で迫って来た!私たちが呆気にとられていると、通訳が陳老師にそのことを言いつけると陳老師が酔拳先生の袖を引っ張って連れて行ってしまいました。
最近知ったのですが鄭州は勿論、陳家溝にも、今も旧日本軍に対する恨みは根深く残っているようです。鄭州の武術隊の皆さんにとって私達は戦後初めて見る日本人であったようです。
今にして思えばすべて良い思い出ですが … 。
そうそう春光さんが聞いた話で、あの演武会で、ト文徳老師も八卦掌を演武して下さったそうです。ト老師は我らが道友、程日興の叔父であり、陳老師を中央に出されたその人でもあります。
さて、私達は十九世から直接学べる事が確実となり、その期待を胸に意気揚々とバスに乗り込みました。しかしホテルに向かうその間も陳老師は寡黙で話し相手は専ら陳老師の上司の顧先生でした。ホテルについて、それぞれに自分たちは荷物を持ちエレベーターに乗り込みました。ところが、何を思ったのか陳老師はドアが閉まる寸前に乗り込んで来られ、案の定左右のドアに両肩が挟まれましたが、その時!私は見逃さなかった!陳老師は両方の腕を左右に張ったかと思った瞬間両腕を逆纏にねじり込んでドアの間をするりと、すり抜けて外に出たではないか! … 挟まれそうな陳老師を見て私達は『何だか陳老師はエレベーターの乗り方もあまり分からないみたい!初めてなのかねぇ… 』とみんなで冗談を言い合いながら上がっていきました。
そうそう、その後にもこんな事が有りました!練習のなか日に私達は陳家溝へ表敬訪問をする事になり、その帰り道 … 陳老師は私の前の席でマイクロバスの乗り口にある補助席に座りました。
陳老師は大分疲れているようで深く寝入っておられました。その当時の鄭州市周辺の道は悪く、四キロもある黄河を車で渡る橋も無く、鉄道橋を併用して汽車の通らない間を見計らって車も渡るという具合でした。道も黄土で凹みも多く、その中での居眠りは、きついなぁと思っていたその矢先!タイヤが窪みに落ちてバスが大きく跳ねた!
陳老師の座る前の補助席には掴まる取っ手も無く、陳老師は体ごと頭からつんのめった!しかし、私がアッ!と叫びそうになった瞬間、陳老師は右足を踏み出し、全身を左から右に捻ったかと思ったその瞬間、右手を上にはね上げ同時に左手は下にねじり込んだ!その全身は開合しながら、ごむまりのように弾み片足でバランスを取っているではないか! 一 見事! 正に白鶴亮翅の仁王立ち … それを無意識のうちにバランスを保ち一瞬にして成し遂げるとは … 私は驚き且つ呆れた … しかしこれが陳氏太極拳十九代の重みというものか!!日常全てが太極拳なのだ…
それは禅の世界に生きてきた私にも良く理解ができる。
ところで、この日の表敬訪問は一生涯の忘れがたい思い出となった。
まずホテルを出発して黄河を渡った時点で私達の乗ったバスの前後に政治局の先導車が付き物々しい車列となって陳家溝に入りました。
そして更に驚いたことに戦後初めて見る私達外国人をー 歓迎?見せ物? ーで集まった人のその数なんと2万人、陳家溝の人口が2千人と聞いていたにもかかわらず、なんという人数か、広い運動場に人が溢れ、その周りの樹木にも人が数珠なりになっている!。
聞いてみると、私達外国人が来るということで、その日は陳家溝のある県一帯が学校も仕事も休日となっての一大行事となったらしい ー
その日の四天王の演武は若き日の貴重な記録となった。演武は日本側にも要請され、私が日本側代表で武壇の三十二式を演武をしました。
第23章 陳氏太極拳 十九代伝人 陳小旺老師 その2
さて演武は言い出した中国側からと云う申し出を、それでは礼に反するという理由から私達日本側から始めました。
一人一人が緊張感の中にも全力で演武を行いました。
私は、台湾で聞いた〝大陸では文革後すでに失伝した〟という老架式を臆することなくやりました。
他の人達もそれぞれの演武が無事終わりその後、中国側の演武が始まりました。
いやはやそのレベルの予想はついていたが、さすがに ー
技の切れ味などは武壇で見た上級指導員並みで、とてもとても私達の演武で対抗できるものではありません!
演武も後半に入り、いよいよ陳老師が出る期待から喉もカラッカラ ー
まずは例の小柄で横柄な先生がやたらと我々を睨みつけながらの酔拳、その挑発的な態度がこれ又なんとも妖艶な迫力で迫ってくる ー。
そして 最後!ついに陳小旺 … 千載一遇のチャンス!とばかりに ー 私はその時、意を決して礼儀もわきまえず、事前に申し出ると断られるかもしれないと考えた8ミリカメラを、構えた!
そしてそのレンズを通して見た光景に度肝を抜かれた
〝 ウワ~!なんなんだこれは! …〟もう無我夢中でカメラを回し続けた
なんとも言いようがない … 五年前に見た徐紀老師と同じ感動にただただ震える手で一生懸命8ミリを回しておりました。
何なのか?今まで見たことのない柔らかさ … 陽炎ににて
形が掴めない … かと思った瞬間閃光が走る! …
何が起きたのか動きが見えない( 後日8ミリをスローにして初めて見える動きだ!)
これも後日談ですが陳老師は私の8ミリを見て〝まさか〟と意表を突かれたらしく私が8ミリを向けたことをよく覚えておられた!やはり撮影は禁止であったらしいー でもその後政治局の上司から今回は〝中日友好の為〟ということでフィルムの没収はまぬがれた)
第22章 求道の太極拳(大陸編) 陳氏太極拳 十九代伝人 陳小旺老師 その1
正師を得られなければ修行してもしょうがない 一 私の学びの初めに問う言葉であります。
1981年3月9日 日本 成田を出発して一路上海へ ー
慌ただしいスケジュールで、上海到着後その日の夜行列車に揺られて一路、河南省の省都鄭州市に向かいました。
台湾で足掛け五年間、基本を学び私が三十四歳にして、いよいよ陳氏太極拳の第十九代伝人陳小旺老師に指導を受ける機会を得たのでした ー
とはいっても、まだそれは確定したことではありませんでした。
実は私達は日本から河南省対外友好協会宛に、陳小旺老師から太極拳を学びたい旨を、要請しておりましたが、その返事が中国側からなかなか貰えず、みんなはしびれを切らして「学べなくて、元々」と強引に出発をしていたのです。
17時間の夜行列車の旅も終わり、ようやく3月10日鄭州駅に列車は滑り込みました。私は旅の疲れからか列車の窓からホームをぼんやりと眺めながら停車を待ちました …
次の瞬間!そこに見たものはホームの上にただ1人、人民服で身を固め、姿勢を崩さず凛々しく立つ陳小旺老師の姿でした ー
私はまさかの光景に飛び跳ねて『あッ陳小旺だ!』と叫んでいました、一緒に来た仲間たちも、色めき立ち、 ー どこどこ!あれあれ!うわ~~~ とまるで子供のように嬉々として旅の疲れもすっ飛んで喜び合いました。
実はこの二年前に、私は武壇での兄弟子にあたるM氏のご尽力で鄭州市においてすでに陳小旺老師とお会いしておりました。
その時の第一印象は〝 牛!〟 首は太く、顔も牛並の大きさ?に見えてでっかい!真新しい黄色の練習着を着て少し前かがみで、どことなく自信の無さそうにも見えました。
それもそのはず居並ぶ政治局の上司の威圧のせいからくるものであることはすぐに察知できました。そしてもう1人その横に小柄な酔拳の先生がいましたが、非常に挑発的な目つきで私達を睨みつけておりました。
どうやら、突然日本から他流試合に来たという印象を与えていたようです。
最初の挨拶も済んで、私達の訪中は試合ではなく、ただの表敬訪問であることを知ってか、中国側から思いがけない提案があって一同色めき立ちました。
それはお互いの演武を通じて親交を深めようではないか!というものでした。
私達一行はその提案に対し、引きそうになりながらも、それが礼儀ならばと覚悟を決めて〝やろう〟ということになりました。
そして、それぞれ何を演武するかを決めてから、全員が鄭州市体育館に移るバスに乗り込んだのです。
まず体育館に着いて驚いたことは、観客席のその人の多さでした。どうしてこんなに大勢の人達が!?
( 数年後に王西安老師から言われたのですが、陳家溝からは、この日の為に大勢の老師方が来ておられたそうです、勿論王西安老師も正面の観客席に居たそうですー )
第21章 練拳
それはさておき、劉大師の本物として魅力は捨て難く私も大いにやる気になって、その日、部屋に帰った後、これから朝は楊式太極拳を、夜は陳家太極拳を学ぼうと自分なりに計画を立てました。そして、今までとは何かが違う修行の予感に、出家前夜に思いを馳せ、あの時なにかを残したくて、自分の志しを部屋の壁に 《 我、志しを立てて郷関を出ず、修行もし成らずんば死すとも帰らず 》と書き残した言葉など思い出し、新たにこれから始まる期待感とだぶってその夜は一睡もできませんでした。
次の日の朝、劉大師の高弟で、後に私の太極拳の師となる徐紀老師にお会いしました。その席で、私達の希望である陳家太極拳を学びたい旨をお伝えいたしました。そこで徐老師は武壇における拳の学び方の図式を見せて、説明をして下さいました。
それによると、《中国人、日本人関係なく、基本をみっちりやった後、その基本の出来具合からその人の素質に合わせて、何を教えるかは武壇側で決める!》というものでした。その意味するところは、もし基本をやっても太極拳の素質がなければ別の拳を教えるが、本人が希望しても太極拳は教えないということになります。
ーさすがは武壇! 格式が高すぎて緊張が走る … 内心、そんなに高級な太極拳なのか…と半信半疑で、側にいた通訳に、不謹慎ではあったが、ついからかい気味に『ならばその高級な太極拳を少しでも良いから、今見せて貰えないですかねぇ』と言うと、通訳はきっちりと徐老師に伝えたようで、徐老師は ー 『好了』というなり、いきなり立ち上がって、私の目の前で始まった!
ーうねった! ー嵐か!
稲妻のように拳が打ち下ろされた!
ー唸った!原始の風が!
我が目を疑った、なんという … 絶句した … これが本物の太極拳なのか、 ー たしかに見た!その柔らかさの中に、品格までも備えた美と人間技を超える鞭のような切れ味 ー これが陳家太極拳なのか ー やる!
基本でもなんでも本気でやるー またしても取り付かれてしまった。
…それほどに魅力的であった!さすがは劉大師の高弟徐老師であった…。
改めてこれからのご指導を切にお願いをして帰宅いたしました。そして次の日から始まった基本が単腿十二路 ー しかしそれを実際八ヶ月もやることになるとは思ってもみませんでした。後々それが良かった!それなくしては、今の成果は有り得なかったかも。
単腿を学んで三か月が過ぎた頃、私の単腿の師である黄偉哲老師から、『 明日は劉大師が来られるから頑張れ! 』と言われました、
えっ劉大師が見て下さるのか!と内心動揺した… 次の日、劉大師はいつもの優しい表情で椅子に腰を掛け、足を組み合わせ、手はお腹の前に置く独特なポーズで、気楽にやれやれといわんばかりに手を振って下さり、おかげですこし緊張から解放されて張り切って演武を始めました。
その当時武壇の初心者用?の道場は狭く十坪ぐらいであったか? … 私が一路の表裏を終えた時には道場入り口に達しており、残りの表の動作は外の道路でやって収勢、その流れから次の二路の起式も外でやり、そのまま道場に入って来るといった具合でありましたー が?
ふと気付いた事に、私が演武をしながら劉大師の側まで行くと腰掛けながらも劉大師は自然に手と足をサッと組み替えられる ー 次の三路の時、私もそれを気にしながら近づくと、やっぱりある間合いに入ると、サッと手足を組み替えられるー。
確か以前にも同じ事があった …あの時、劉大師を囲んで私達の歓迎会を催して頂いた席で、私がビール瓶を持って席を立つとその瞬間、劉大師は私を押し止める勢いで『山口は何をしているか!!』 とたしなめられた。
その時通訳の李さんが得意気に 『これは日本人の習慣で目上の人に感謝の意味を込めてお酌をするのです、劉大師!受けて上げて下さい 』と説明をして頂いたので私も気楽に、テイブルを半周してお酌をしに行きました。
ーところがお酌をしようとしたその時、一瞬緊張が走った…。
それは最初に武壇でお会いして握手をして下さった時と同じで息詰まるものを感じた ー 後でそのお酌の瞬間を撮った写真を見て分かった!
ー劉大師のコップを持つ右手とその反対の左手が!… そして私を見据えたその目線に! … 些かゾッとした! 危ない!
ーそうだったのか!
最初にお会いした時のステッキも、お酌を受けていただいた時のあの手も、そして何の気なしに組み替えられる脚にも。
もし私がその気になって劉大師に打ち込んでいたら … 一瞬にして倒されたでしょう ー しかも象牙の指輪で固めたあの拳で!
そういえば、武壇の向かいに住んでおられる黄義男先生が言っておられた。
ー 義男先生の人柄は、実にひょうきん者で男気があって誠実で、日本びいきで高倉健さんのファンである人、といえば分かりやすいでしょうか。
その義男先生が流暢な日本語で私に話されるには、 ー ある日、隣に中国大陸から引っ越してきた武術家がいると聞いたが、私は日本の剣道が好きで別に気にもかけず毎日家の外で素振りをしていた。ある日向かい側の入り口の扉が開いていたが気にもせず素振りをしていたら、その扉の中から手招きする人がいて何事かと思って行ってみると、老人が一人横柄に椅子に腰掛けていた。
私はとっさに ハハー!大陸から来た自称武術家とはこの人か と思ったが、何とも態度がでっかい、それに言うことか!木剣を指差して打ってこいという、ちょっと頭にきて隙あらばと狙ったが、相手は動かない!こいつッと思って打ち込もうとした瞬間、― どうなったと思う ―!
横に置いてあった杖が私の鼻ッ先(指差して)にあった‥! ー
驚いたねぇ‥本当だよー! と目を丸くして話して下さった。
勿論それを機に弟子入りした事は言うまでもありませんが、それ以来喧嘩に負けた事がないそうで、喧嘩の仕方まで教わった?懐かしい思い出です。
そういえば、私がいろいろお世話になったので、「今度日本からのお土産、何がいいですか?」と聞くと‥すかさず、雪駄と云う … それでも日本びいきは顕在だったようです。
それにしても恐るべし! ー 百戦錬磨の武術家だ!その真骨頂を私も見た!
又ある時 私の演武を見て頂き、終わって黄老師が劉大師の手前からか、苦笑いをして 『 とにかく山口の演武は穏やか過ぎる! 』と小言を言ったのに対して、劉大師は笑われながら『 それで良い それで良い!山口は和尚だからそれで良いのだ!』 と評価して下さり続けてー
『 中国武術とは何かわかるか山口!一つは心身の鍛錬 二つは 芸術 三つに護身術だ、よいか!その中でも一番大事なのは一番目の心身の鍛錬である 後は芸術性、そして小さな意味で護身術と続く』と言って頂き、私は我が意を得たりで嬉しくなりました。
又この様な事も言われました 『 武術になぜ芸術性が大事なのか分かるか! 人に見せる為ではなく!正しい動作は美しいのだ 』 … と 私は感じ入ってしまいました。そして続けて『将来お前が道場を持った暁には、私が書を書いてやる!』(1988年道場設立の折り約束通り、劉大師より二幅の掛け軸を賜りました) とまで言って頂き、感激致しました。
劉大師は私が当初から一途に太極拳を求めている事を良く理解して下さっておられました。しかしその後徐老師がアメリカに渡られた後、『もしお前が八卦掌をやるなら私が教える』と八卦掌を勧めて下さいましたが、敢えてご辞退申し上げて、太極拳を求めて大陸に渡る決心を致しました。
【確かに … 私の求める太極拳は一般的に云う武術ではない、もし私の武術性を問うならば、 敵は … この世の 無常 であり、それに勝利した暁には、この宇宙を征服する ー というものです 。目先の強さを求めて、勝ち負けにこだわる人間には想像もつかないでしょうが… 】
近年 太極拳は確かに武術として発展をし今日においてもその武術性はしっかり受け継がれております。それだからといって太極拳は即武術だという言い方は一面観であり、正しくはありません、また武術だと言ってもその正しい武術観を知らなければならない。以前私の寺に柔道の山下の弟弟子であるという東海大の学生さんが来ました。
その人が云うには『何故今の柔道には道というものが無くなってしまったのでしようか』と私は『それはしようがない、今の武道は競技であって命を懸ける必要がない、それは子供の遊戯「花一匁」と同じだから! … 勝ってうれしい~ 負けて悔しい~ でしょう!そういう武術観だから武の道は無くなってしまったのです』と答えました。
本当の武術観は生死問題を抜きにしてはありません。
生き死にからの解放が問われるのです!相手と対した時、もしかして自分は殺されるかも知れないなどの恐怖に襲われると、どんな達人でも体が硬直して動けないものです、ですから本当の武術というのはやはり自分との戦いであるのです。剣の切っ先を喉下に突きつけられながらも凜として居れるかが問われるのです。
しかし今日考えられる武術は、後に怨念を残し … あん畜生こん畜生と畜生の戦いとなっている。それでは決して武の道とは申せません。武術と云うなら、対する相手を殺さねばならない!何故なら殺されるから … そこまで真剣に考えて、私は武術をやっていると云えるかが問われなくてはなりません。そして生き死にを超える鍛錬をしなければ相手と対することなど不可能である。人の一番の弱みは死苦にあります。
正しい武術観はその死の超越を解く訳ですから、だから武術も又正しく人の人格を完成する道と成るのです。
劉大師が申された《武術は一に心身の鍛錬にある!》の武術観の真意もここにあるのです。
剣豪、山岡鉄舟居士は、ここのところを、《 晴れてよし 曇りてもよし 》と 勝ち負けのなかに人生の真実は見いだせないぞという、人生の本質からいって問題にならないという、 … さぁよく見ろ! … 《 富士の山 もとの姿は 変わらざりけり 》と仰るのです。
特に太極拳は他の拳法とは異なり、科学者 F.カプラの云う ー 量子運動(著書 タオ 自然学)即>ち、太極拳は宇宙の運動の法則である ー と言うのが一番的確な表現ではないでしょうか。】
第20章 和尚
後に知るのであるが、どうも 《和尚が武術》というと、伝説的な中国崇山少林寺の僧とだぶり、なんともアニメチックな気合いを感じさせるらしく、どうやらあの怪しい笑いの裏には 《クスグッタイ奴!》 とでも云うのが本音ではなかろうか ー 私は気持ちの悪い奴から、くすぐったい奴 ー と見切られたようだ。
まぁ … とにかくその後も、台湾のどこに行っても《和尚が武術を学習していると聞くだけで大いに受けて、興味をもたれ色々と世話をやかれました。 そのおかげか、住まいは台北佛教居士会の一室を無料で借りる事ができ、とても助かりました。
しかし良い事ばかりでも無く、居士会の近くにある食堂街に行っても、私が和尚であるという理由から、たとえ野菜食を注文しても、『 肉や魚を料理した鍋で煮たものだから、あなたはダメ!』と断られ、いつも一緒について来る二人の親切な台湾人と店の主人の間で口喧嘩が始まる、それでも結局はバスを乗り継いで素菜と呼ばれる精進料理店まで行く羽目になってしまう…。素菜館まで行かなければ食事も出来ないという不便さから、いつも同行のお二人の案でその後、非僧非俗の姿、 … ジーンズに五分刈り … に変装させられて、この問題は一件落着となった!
武壇に行って1ヶ月過ぎたころ、どこで聞きつけたのか新聞社が取材にきて、台湾全土に写真入りで紹介されてしまいました … しかし台湾では和尚というだけで、ずいぶんと助けられたのはたしかです。 … そして日本語の出来るあの二人にも!本当、心から感謝しております。
第19章 武壇の思い出 大師
それが劉雲樵大師その人であった。
入り口で弟子のお二人が布の垂れ幕を左右にサッと振り分け、その間からスゥと私達の待つ部屋に入って来られたのである。 …それでも、私達には一目もくれずに立ったまま側近の人と一言二言会話を交わし、また通訳が劉大師に説明を終えたところで、ようやく手に持っていた杖を傍らに置き、付き人が帽子とマントを受け取り、自ら皮手袋を外しながら、ようやくにして私達の方をご覧になり、微笑んで下された。
驚いたー、なんと上品な紳士ではないか! サングラスを掛けておられて素顔は見られないものの、私がつい先ほどまで想像していた、剣豪宮本武蔵のようないかつい武術家のイメージではなく、指も細くスラリとしていて、握手をした時のその手の柔らかさも印象的であった。ー しかしその立ち姿になぜか揺らぎがある、が油断がない、 ー 禅定に入る私の呼吸を量っているかのような… その全身リラックスの中に凄みを感じる!
武術家と禅定家には相通じるものがある、以前、太田老師が『剣の達人は鞘の内に勝負をつける、禅僧は百歩離れてそれがわからなくては駄目だ!』と言われた事を思い出した。
確かに雲水修行を半年もやれば胆田が定まり、そして日々の進退作法の鍛錬において即今即処に自在を得、禅機なる力をつけるしかも武術家とは異なり、無心にして無抵抗である。
鞘の内がみえる武術家はこれに反応してしまう … 相手を量る事が出来ない!ゆえに私を何者であるか!とみるか、あるいは気持ちの悪い奴とみるか。
……その後、それぞれ椅子に腰掛けて暫く会話を交わしたところで、自己紹介が始まりました。
そして私の番のところで 劉大師が突然通訳に向かって 『彼はなぜ髪の毛がないのか』 と聞かれました 。そこで通訳が、
『彼は日本から太極拳を修行に来ている和尚である』と伝えるや否や、劉大師はじめそこにいた人達までもが大笑い … 、お陰でその場が一気になごみ、私達の緊張もほぐれてやっと一息つけたのは良かったのであるが、 それにしても和尚が何故にそれほど可笑しいのか! 私も一緒になって笑っていたものの、なんとも意味不明であった。
第18章 武壇
確か景美というところでバスを降り、数分歩いた所であったように記憶しておりますが大分記憶も薄れてきております。
ただあの瞬間だけは今でもはっきり覚えております。 それは今まで経験の無い異様な雰囲気であり、あの緊張感には凄みというか殺気に似たものまでも感じてしまいました。
それは武壇について間もなく、 外で慌ただしく人の動く気配がしたかとおもうと突然私達を接待してくれた人が手に持っていた箒を壁に立てかけ、鋭く “大師が来る”と通訳に囁いた 。…その後自らも不動の姿勢で立っている。 私達二人は何のことか理解できずにいると通訳が突然 『あなた達も立って下さい!』 というものですから何事が起きたのか分からなかったが、我々も椅子から立ち上がりました。 でも、あまりにも突然なことなので何事かと思い、私は布の垂れ幕の隙間から外を覗いて見ました。
そこで目にしたものは、街灯を背にして薄暗い路地を黒の帽子に黒マント、手には杖を持った人が静かに歩いて来るではありませんか。
そのいで立ちと身のこなしは一見して、ただ者ではない雰囲気、たしかに凄い威圧感があって、皆も緊張する訳である、これが本物の武術家なのか!
第17章 台湾
二十八歳の時、 インド巡拝の旅から帰る途中台湾に渡りました。
昭和五十年三月、本場で太極拳をやりたい一心でした。 そして特別宛ても無く、街中をさまよい歩きました。 日本のように柔道や、剣道のような看板や道場があるものと信じてそれを探したのです。 しかしどこにも何も無くて困り果ててしまいました。そこでふと気がついたのが電話帳、早速宿に帰り調べたところ 国際拳撃協会という名称を見つけました。
拳であるから間違いないこれだ!と小躍りして駆けつけたまでは良いのですが、何とそこはボクシングジムで、それでも私は意を決してー 『ここで太極拳を学べますか』と トンチンカンな質問をしてしまったらしく大笑いされた苦い思い出があります。
それでも直ぐに私が日本人であるという事が分かるやいなや、一転大歓迎のムードに包まれて、客間のソファーに座らされ、お茶や高級菓子までだされ、私は心の中で《多分又何か誤解されているのでは》と心配になって、用が終わったから帰ると立ち上がっても、なかなか聞き入れてくれず、また座らされてしまう、それから間もなくして、最初の師になる高弟で日本語も出来る氾師範が私を迎えに来て下さいました。
どうやらジムの人が四方八方に問い合わせて、太極拳の先生を探して下さったよぅです。お陰様で次の日の朝から台北駅の近くにある新公園という公園で、徐逢元老師より指導を受ける事になりました。
台湾人の親日感情の豊かな事には驚かされます、日本語の出来る人も多く、その後の展開でも私を奪い合うが如くに世話をして下さり、今もそれらの人々に心から感謝申し上げております。
さて、私の最初の師である徐老師は戦後大陸から渡って来た人で、台湾やアメリカでも名を馳せた鄭曼青の直弟子であります。
実践経験も豊富なようで、鼻筋がかなりカーブしていて、隙なく威風堂々とした武術家でありました。その方から一年間、鄭曼青の楊式太極拳六十四式と推手の指導を受けました。
ちょうど一年が過ぎた頃 日本から高橋さんと言う北海道の方が やはり太極拳を学びに台湾に来ておられました。この人は既に武壇という武術館で 陳家太極拳を学びたいという目的を持って来ておられて、日本人の私が同じく太極拳を学びに来ているという噂を聞いて、新公園まで私に会いに来てくれました。そして、私の知らない太極拳の世界の事をいろいろ教えてくれました。
ある日、高橋さんが言うには「今日の夜、私は武壇という道場に行くが、あなたも一緒に行かないか」と誘って頂いたのですが… 。
とにかく 陳家(ちんけ)太極拳と初めて聞く太極拳の名称から、どうしても… 珍奇太極拳 …と聞こえて…乗り気がせず、それにもうすでに私には師もいるからと躊躇して断ったのですが、あまりの熱心さに「では見学だけ」という約束で、その日の夕暮れ時に新公園の近くで待ち合わせ、通訳と三人で出かける事にしました。
第16章 丹田
丹田とは、臍下丹田と云う言葉があるように、臍の下という事です。しかも、鍛錬をすれば実感できて“ここ”と指先一点で指し示すことができます。
では臍下の何処かとさらにその中心を探って行くと、ついに行き着く所は無いのです。それは極小無限であるからです。
・・・、そうすると丹田とはどこ?という答えは、場所や位置を云うのではないことは確かです。ならばそれは何か!
人々各々、臍下の丹田とは・・・、丸いボールの表面のどこを指してもボールの中心であり得るように、自身の丹田はこの宇宙の中心と考えるべきであります。中心は太陽のごとき充実した実感あるものであり、宇宙の姿はその陽光と陰影のバランス( 陰陽 )であって無常なもので、実体無きものであります。
また天地宇宙一切物質的現象もその多様性にも関わらず、ただ陰陽二力のその作用にあります。人体もまた宇宙のその作用であります。
そうでなければ目、鼻、口、耳、手足内臓など、皆に共通して同じ部位にあるはずがありせん、誰が一体その人体のバランスを設計したというのでしょうか?
それは間違いなく、天地宇宙力なのです。
その意味からいえば、反対にこの宇宙のバランスも人体の抽象的形状にあると云えるのであります。科学から云っても知ると知らざるとにかかわらず、天人地は姿は変わっても本質において同根一体のものであるはずです。
もしそのバランス状態を知ろうとするならばアインシュタインが“物の背後に隠された秘密”と暗示的に示唆するように、それ( 陰陽二力 )の法則を知らねばなりません。
問題は陰陽二力の法則は大ざっぱな感覚である五官(眼耳鼻舌身)の、分別の対象になりえても、陰陽二力を生み出す太陽のごとき中心の実体は深い潜在意識の領域で、実参実究の一体感をもって智らなければ理解不可能な世界なのです。
それゆえアインシュタインは“背後に隠された秘密”と表現をするのです。
禅から云う丹田を練るとは、正しく天地宇宙のバランスと及びその中心に一体になることであります。
即ち、姿勢を正し分別を交えず(参究)無為自然の境に安住すること。それにより、本源においてその秘密《 天地同根、万物一体 》を智るのであります。
同根、一体とは無分別にして智るという事で《 無分別智 》と申します。
この智慧でなければ知るよしもない。一般的に云う無念無想の境に入ることです。
難しいようですが、一応このように定義しておかねばなりません。
太田老師の仰る、「首から上を必要としない」とはこの事あります。
第15章 参師聞法
太田老師が帰られて半年後、師匠さまにお願いをして私は東京永平寺別院に太田洞水老師を訪ねました。
太田老師は六畳間の小さな部屋におられました。部屋の中には机と座布団、その横に柔らかそうで上品な布団を三つ折りに重ね合わせ、その上に円座を置いた坐禅の場、その前の卓上には線香とマッチだけがおいてありました。この二畳ほどの坐禅席の空間は何人も立ち入ることが許されない聖域として、部屋全体の空気を引き締めていました。
それから二週間、私は老師と共にここで生活をする事になるのです。
私も坐禅好きで、坐る事は何の苦でもありませんでした。しかし・・・、1日のうち、何でも口実?にして坐るのには驚いた!
たとえば、「眠いですか!では坐りましょう」「疲れましたね!では坐ります」「食事前ですから!坐りましょう」「・・・食後の三十分は坐ってはなりません、三十分後に坐ります」「もうすぐお客が来ます、来る前に座りましょうか」「帰りました、では・・・」等、とにかく毎日十時間は坐りました。
師に参じて毎日法を聞きながら坐禅三昧の生活は、それは嬉しかった。
しかし正直、足も痛かった。この経験は禅僧の日課として当然のことであるかもしれないが、それを体感してこそ身に染み入るものであり、そして我がものとなるのであります。
– 即ち頭で分かっていても体得しなければ学んだことにはならないのです。
– これが正師に参じなければならない理由の一つなのです。
またこんな事もありました!
その当時の後堂さま(雲水の指導者)と三人で太田老師の部屋でお話ししていた折りに、我が師丸山老師の話しになりました。太田老師が「師匠さまの指導はどうですか」と私に問われました。
私は即座に「ある時から突然に厳しくなって本当によく怒られます」と正直に申し上げますと、後堂さまが横から笑顔で「嫌かい?」と仰いました。
私はその時意味が解せませんでした。と申しますのも、私の中に怒られる事は当然のこととしてあり、叱られることに対して私の分別の念がまったく無かったからです。
・・・、私は少し困惑気味に「でも師匠は、怒られる事は良いことだと言っておられますから」と誠意を込めて申し上げますと、後堂さまは大笑いなされ「素直だねぇ」と仰り、太田老師は「そうです・・・、本当に素直にバカが付きます」といって、笑い顔から下を向かれて涙ぐまれたのには、驚きと少しショックを受け(えっ!何故)と思いました。が、・・・その時、分かりました!
あの日の五寸釘の一件、あの師の笑い顔には私の愚直を認めて下さったんだということを。ただそれだけではなく、それが道の学びにとって必要である事を、太田老師の涙と、その時の部屋の雰囲気から感じ取る事ができました。
その当時の私の性格では社会に通用しなかったでしょう、いや!その性格であったからこそ、私は正師に守られながら正道を歩ませていただけたのです。
太田老師は「あなたの師匠さまの禅機は素晴らしいよォ、いま時いないよォ」と仰って頂き、私はほのぼのとした法悦に包まれていました。
そう!坐禅といえば太田老師は、あの体力で年間六回の接心を一週間毎日十八時間、坐られます。私も十八時間の坐禅に挑戦したものの、まだ成功はしておりません。
勿論長ければよいという訳ではありませんが、よほどの禅定力、(集中力)と日常のバランス(境涯)が良くなければできるものではありません。
ある日、太田老師と一緒に入浴させていただいた時に見た体の傷は、前から見ると傷は何も無いのに、背中にまわると縦五センチほどの貫通弾のあとが四カ所、更にその傷を打ち消すかのように三十センチの刀傷がありました。
壮絶な傷跡を見て唖然としている私をご覧になり、ゆっくりとお話をして下さいました。
「私はねぇ、一瞬にこんな体になって、軍医からも見放され三日三晩ほっておかれたんだぁ。しかしそれでも生きているからといって、ようやく治療が始まったというんだぁ。後で聞いた話しだが、その三日間私はのたうち回って大変な苦しみであったそうなぁ。・・・でもねっ、本人は全然苦しくはないんだよぉ!体が勝手に苦しんでいるだけだからねぇー。また坐禅もねぇ、首から上は必要としないんだよォ。・・・わかっかぁ」と独特な尻上がりの鹿沼弁で話して下さいました。
さらに頭には三センチほどの弾でえぐられた傷あと、右膝も弾が貫通していて坐禅を組むにも足が不自由でありました。夜の寝具の敷き布団は老師自ら体調に合わせて工夫なさったもので・・・、固いマットの上に厚手の柔らかいマットを敷き更にその上に二枚の敷き布団を敷くという念の入れようでした。 畳から式布団の厚さだけで四十センチ、ベッド並みでした。
それでも背中に痛みが走るため、仰向けになっては寝れないと言っておられました。
そのような痛々しい状態で、体力も無く、幾度となく死にかかった事か。
老師が仰るには、ある時、危篤になって回復する見込みも無く親族が集められたそうです。そして遂に医者から「ご臨終です」と言い渡されたそうな。
しかし老師は親族の悲しむ声や医者の臨終の言葉もすべて聞いておられたそうです。
その時、老師は「臨終と言われた後、私はねぇ、自分の全身を調べてみたんだぁ、そしたら丹田の気は抜けていなかったねぇ・・・、それで私は死なぬ!と確信を得たよォ!」だそうで、それから自然に意識を失ったが、数時間後に生き返ったというのです。
その話をした後老師は「よいかねぇ・・・、人は亡くなっても、聴覚は最後まで残るからなぁ、亡くなった人の前では悪口は言いなさんなぁ・・・」と私に冗談めかしに言っておられました。
そして真剣に「丹田を錬れ」と諭されました。
第14章 法友
仏縁といえばもう一人、太田老師の来られる前に、やはり我が師を尋ねて来た青年僧がおられました。
この方は全国行脚の途中に立ち寄られ、いろいろ仏道のお話しをして下さり、太田老師同様に私の道心を呼び覚ましてくれたた方です。後に兄弟子になる法玄師兄で、帰り際に一冊の本を私に手渡されました。
開けてみると、カッパのような風貌をした、なに者か良く分からない写真を見て私は、「禅僧以外の本は読みません」と突っ返してしまいました。
確かにその当時の私は一途な不器用者で、偏屈で禅以外のものは全て遠ざけておりました。ましてや外道ものおや!と・・・
ところが、何とその本を二十五年の後に、偶然に開いて見て、感動のあまり、その場に座り込んで八時間!感涙にむせびながらぶっ通しで読む事になるとは。
その人物こそ、インド僧“ヴィヴェーカーナンダ”その人でありました。
彼、ヴィヴェーカーナンダは仏陀(お釈迦さま)のことを、このように仰る。
– 彼、仏陀は一人の弟子が泣いているのを見ると、叱って言われました。
「こんなに嘆き悲しむとは一体何ですか?これが私の教えの結果ですか?誤った絆があってはならない。私に寄りかかるのをやめなさい。この消え去っていく個体を誤って栄光化してはなりません仏陀とは一人の人間ではないのです。仏陀は悟りです。自分自身の救済を行じなさい。」と死に行く時ですら仏陀はご自分の特別なこと、卓越していることは主張なさいませんでした。私はこれがために仏陀を崇拝します!
(ヴィヴェーカーナンダの感動と情熱、私はこれがためにヴィヴェーカーナンダを崇拝します)
世界の師の中で仏陀こそ我々が自立するように教え、誤った自我という認識の絆から解き放ったばかりでなく、目に見えない神と呼ばれる存在からも解き放ってくれました。
仏陀はすべての人が、彼の呼ぶところのニルヴァーナという自由な世界にめざめる平等の権利を有していると宣言されました 。すべての人がいつかその絶対的自由の状態を達成しなければなりません。そのニルヴァーナ・涅槃への到達が人間の完成なのです – と仰います!
私はこういう言葉は一番衝撃的で応える。
たしかに!だからこそ私は出家したのです。
《 天上天下 唯我独尊 》
私が一番欲しかった世界 『どちらにころんでも大丈夫な世界はないのか』に対する完璧なお答えであります。
このお示しは・・・、人々の内にはすでに完成された『仏性』が存在しているというお示しであり、それは他から与えられたり、また取られたりできるものではない!元来 『あなたは それである』それ以外の何者でもないと云い、自らがその仏性の純粋な真実に到達した時、その人はその瞬間から仏陀となり永遠の自由と平等を獲得するというものです。
・・・
完全なる御教えではありませんか!
《 人人各居一太極 》
しかも仏陀は御自身のみをそうであるとおっしゃったのではありません。このお示しには私たち人類の永劫の安らぎが保証されております。
第13章 正師
正師と言えば・・・、私が出家して一年半が過ぎた頃、一人の修行僧が晩秋の木枯らし吹く中、突然に寺を尋ねて来られました。
着古した愛染の木綿衣に、素足で下駄履き、首から下げた頭陀袋は擦り切れ、その前に手を組み合わせて、玄関先に立たれました。
その姿は、若い雲水の身支度であるが、五十路を過ぎていて物腰柔らかく丁重なご挨拶ぶりに、私は思わず新前の尼僧さまかと思いました。
しかしお茶の準備をして応接間に行くと、先ほどとは想像もつかない雰囲気で座敷の下座に座っておられる。その凜としたお姿を見て、少し緊張ぎみにお茶をお出ししました。
そして改めてご挨拶を申し上げて、益々緊張してしまった!新米の尼僧さまではない。
眼鏡の奥に見る眼光は身震いするほど鋭く、それでいて人を射抜く目ではない。
全てを包含し一切を見抜いている眼差し、それはどこかで見たよぅな・・・。そうだ!私が出家前に、理想の禅僧としてしっかり心に焼き付けたあの人物画、飯田蛇足筆の臨済禅師だ!その禅師を彷彿とさせるものがあった。
反対に私がもたつく新米ぶりをご覧になったのか、さらにやんわりとその御方は太田濱次郎という在家名でご挨拶して下さいました。
が!
そこが小僧魂!! 緊張どころか一気に親しみを感じて、もう何とも緊張を通り越して虜になってしまいました!
そのころの私は・・・、思い描いていた出家の世界と、現代僧侶の生き方が余りにもかけ離れている現実に、正直言って絶望感に近い思いを抱いておりました。
そしてその日も、時代錯誤と言われる出家道を諦めて、別の生き方を考えていた。そんな矢先にこの御方が訪ねて来られるとは。
「決して時代錯誤ではない!この道は時代の波に翻弄されるものではない!それどころかこの道あってこそ、人間の尊厳は保たれ、人類に真の平安を約束するものである!今の若者に申し上げたい。決して怯む事なく、この道を歩みなさい!偉大なる武器、道心を弓として、集中で鍛えた矢をのせよ。真理に向けた思いをいっぱいに引き、友よ!、その不滅を的に矢を放て!!」
その日、あいにく師匠さまは不在でありましたがその分、私がお相手申し上げ、話が進むにしたがって親しく禅の修行道をお聞きする事ができました。
私は太田老師に出家の道を正したところ、太田老師は私に、
「法を聞くあなたの目はキラキラと輝いている!道心あるものよ、本物の僧になるなら、野に下れ!」と一喝された!
本物だ!!期待通りだった!
その方のお教えは、私が理想とする修行道であった・・・。現代にも道は脈々と伝わっていた!揺るぎなき道心、その確信を深めて、大感激でありました。
その夜、師匠さまがお帰りになり、私はその方の事を興奮気味にお伝えしました。
師匠さまは笑って聞いておられましたが、住所録に書き残された名前をご覧になり驚いたご様子で、「そうか!今は天竜寺におられたのか、そうか来られたか、この人は凄い人なんだよ!よくぞ私を訪ねて下さったねぇ、この方はね」と、師匠さまが出逢ったころのお話しをして下さいました。
それによると、太田老師は栃木県鹿沼の出身で昭和十六年、戦場で六発の銃弾を受けて倒れたが、九死に一生を得て帰国され、その後沢木興道老師に師事して出家をし、そのまま山に籠もってしまわれたとのこと 。
師匠さまは学生時代に、太田老師がいつも不自由な体で足を引きずりながら座蒲(坐禅の時使用する敷物)を持ち廊下を歩いておられる姿を見ていたそうです。
その太田老師も、二十年の山籠もりから、いよいよ世間に打ってでる決心をされましたがしかし、文字通り世間知らずであるために、学生当時やはり一目置いていた我が師を思い出して頼って来られたのだそうです。
私は!心の底から、この出会いと、その運命に感謝を申し上げたい。
私にとって、禅定(上求菩提)と、その働き(下化衆生)の名僧、高僧に居ながらに師事出来るとはなんという仏縁深き幸せ者か!
第12章 お別れ
その師匠さまとも十数年後に辛い別れの日が来ます。
伊豆の伊東駅の近くにある稲葉旅館で師匠さまのお祝い事のために、すべての弟子が集まりました。
そして次の日の朝・・・、師匠様が奈良に帰られるのを伊東駅まで見送りに行きました。
何の御縁か、私が現在、いつも利用する駅の歩道で、私が「明後日、台湾に太極拳を学びに出発します」と言うと、師匠様は「そうか!頑張ってきぃーやー!、ええでぇ~、お前ならきっと成功するでー」と云って強く私の手を握り、とびっきりの笑顔で励まして下さいました。
この手を握り締められたのには驚きましたが、これが初めてで最後の握手になるとは。
それが永久の別れになるとは思ってもみませんでした。
後日、私が台湾に着いた夜、弟(おとうと)弟子から電話が有りました。
私は異国に渡り少し寂しくなっていた時なので、嬉しくなって「無事に着いたから心配せんといてー」と声を弾ませたのでしたが・・・。
電話の向こうの様子がおかしい。
私はとっさに「どうしたん!」と尋ねました。
すると突然弟弟子が前触れもなく「師匠が・・・、死にました!」と、告げられました。
(えーっ、先日お祝いをしてあんなにお元気であったあの師匠さまが・・・!)
まさかの出来事に私は(何があったかわからないが、突発性の事だから、もがき、苦しんで亡くなられたんだ!)と思い込んで、それが残念で!残念で・・・。
あの師匠さまだけに、有ってはならない悔しさと悲しみから、すぐに日本に帰る気力は伏せてしまい、ただただ悲しみに打ち沈む毎日でありました。
あの偉大な師匠さまが苦しんで亡くなるなんて、そんな事あってはならない!その様子を聞かされるのが正直怖かった!
しかし、それは大変な思い違いでありました。実はそうではなかったのです!師匠さまの最後はやっぱり偉大な最後であったのです!
それはこの様でありました。師は亡くなる五分前にお母さんを呼ばれて「明日からの計画を書いておきたいから書く物を持って来るように」と仰り、そして持って来た便箋に、まず遺偈(ゆいげ)と書き『無為無作にして五十六年、何ぞ仏法を語らん、ただ懺謝あるのみ」と書き記してそれを読ませ、読み間違いを正し、最後に、「 それで良し 」と一言、仰ったそうです。
お母さんは驚いて直ぐに家族を呼びに行きましたが。戻ったときにはすでに息を引き取った後だったとの事です。
さすがです!!師匠さま!見事です。禅僧としての偉大な最後でありました。
その後新聞にも《 禅僧の美しい最後に感嘆の声 》と報道され、あらためて多くの方々に我が師の偉大さが伝えられました。
師匠様は元気な時、いつも口癖のように私に言っておられました。
「わしは長生きできんと思うから、今から言っておく!!、とにかくお前は字が下手だ。よいか!わしの遺言と思って良く聞いておけ」
一つ 字を旨くなれ!
二つ 人前で話しが出来るようになれ!
三つ 御詠歌をやれ!
「以上分かったか!!」
というものでした。
三つ目の御詠歌は、一人、坐禅が好きで独善的になりやすい私のことを憂えて、何かを手段として多くの人と交わり共に精進しなさいとの教えであります。
今、私にとって太極拳が多くの人と交わる手段であり、そして一人太極拳に打ち込み、その結果として求道の神髄をみております。
「南無!大師、ありがとうございました」
『正師を得ざれば修行せざる(学ばざる)に如かず』
「正しい師に師事出来なければ、一生懸命に修行しても何もならんぞ!」
この真意は“どんなに節くれだった材であっても名工の手にかかれば見事な作品に仕上がるぞ!”というものです。
道元禅師さまの御教えであります。
我が師は正に得難き 正師でありました。
私は、その後の歩みにおいても、いつも最高の師を求めました。
師匠さまのその名工の証を心に刻みつつ。
第11章 酒の思い出
丸山老師は本当に偉大な方でありました。しかし我が師にもただ一つ欠点?があった。師は酒が弱かった。勿論欠点とはいえないかもしれないが、私が酒に弱ければの話し!
出家をして間もない頃、法事の席で食事の接待を受けました。私は師と正面にならんで座らされ、何もかもが初めての事で要領を得ず、ただ信者さんの勧めるままに頭を下げてヒョコヒョコと盃を重ねていたところ、暫くして隣の師匠さまの様子がおかしい!
よく見ると顔を真っ赤にして息も絶え絶えのご様子「いや!私の弟子は酒が強くてねぇ~」と皆さんに私を紹介しながら、私に向かっては小声で、「お前よく呑むなぁ、大概にしておけ!」と仰いました。
ただ常日頃の迫力はなくて強がりのようにも聞こえる・・・。私はまた飲むと嬉しくなるタイプで、師のお言葉にも嬉しくなって、いつの間にか堂々と盃を重ねておりました。
後日そのことが余程悔しく?思われたのか、寺のお母さんから「方丈はん、最近毎晩お酒を呑まはるねん!博永さんのせいやで~、稽古してはんねんでー」と、冷やかされる。確かに!何事においてもずば抜けた実力の持ち主である師匠さまが、出来立ての小僧ッ子の横で顔を赤らめ、ふぅふぅしていたのでは・・・、師は心を入れ替えて?猛特訓なさったようです!
その努力の甲斐あってか、師は後に四合まで腕を上げられていろいろな集まりにも支障が無くなったようです。私は内心、私のお陰だなぁ?と心豊かに楽しんでおりました!
・・・スミマセン。
後に知るのであるが「 – 今、ここ、成り切れ、無功徳常精進 – 」
この教えは、インド三千年の哲理の一つである、カルマヨーガの最高教義である事を知るのです。
その教義を我が師は粉骨砕身、私に伝授してくだされた!
私もまた出家したばかりの、未だ何も知らない純真無垢な状態であったから遮二無二吸収していった。
ちょっとでも私に理屈が入るようだと、挫折して出家の道は崩壊していた事でしょう。
裏を返せば我が師は、それほどに魅力ある力量の持ち主であったという事です。如何なる修行も理の実践があってこそ成し遂げられるのです。
聖人の古巣のような国から生まれた超一級(不二一元)の哲理が禅宗に入り中国から日本に伝わって、それがなんと奈良の片田舎の片隅で我が師と実践できるとは・・・。
人一倍 愚鈍 な私を、何事も壱から手塩に掛けて、育てて下さったのです。
「南無、大師!」
第10章 愚鈍
名馬に仕上げる・・・。
勿論それは、人一倍愚鈍な私を叱咤激励して下さるおことばであったのです。
寺に入って間もない頃、師が沢庵の漬け物の石が傾いたからと言って、私も手伝いましたが、突然水を持って来いと仰る。私がバケツに水を一杯入れて師の後ろに立っていると、暫くして「お前何やってんだ」と仰る?私はえっ?と思いながら「水を持って来ました」と言うと、師は手を動かしながら少し頭が混乱したご様子で「うーん、水をどうするんだ・・・?」と聞かれる。
私は「師匠さまが水持って来いと仰いました!」と言うと、手を止め呆れ顔で振り向いて「水が“洩っている”と言ったのだ、そら見ろ!蛇口からポタポタ水が漏ってるだろう!しっかり閉めろということだ!」とたしなめられた。
また、沢庵もキッチリと漬け変えられ最後の仕上げに我が師は私に向かって、「そこの漬け物石を押し蓋の上にドン!と置け」と仰りながら樽桶の正面に蹲踞(そんきょ)の形でドカッと座られた。
私はそのドン!と置けの言葉が気になった私を元気付けておられるんだ、と思い込み、師の頭の上まで石を持ち上げその手を離した。
確かに石はドン!と蓋の上に落ちた。
それと共に予想がつくが、糠臭い水も跳ねて師の頭に顔に・・・。
師は怒った!「このバカ者なんという事をするんだー!」と、私も驚き慌てて「でも師匠さまが“ドン!”と置けと仰いましたからー、私はドン!と」というと、師は汚れた眼鏡と顔をふきながら無言であったが、何かを悟られたご様子。
またある時「博永ッ掛け矢を持って来い!」と、私はその気合いに押されて、「はいー!」と物置小屋に飛び込んだものの、何を持って行くのか?
実は掛け矢の意味が分からない。
不安で固まっていると、そこへ師が飛び込んで来て「何やってんだ!」とまた叱られる私は、きょろきょろしながらも「掛け矢を探してま~す」というと、「目の前にあるじゃん!」と言ってご自分でサッサと持って行かれた。
(な~んだ!大きな木槌のことか)
師は「何も知らん奴だ」と捨てセリフを残して・・・。
バレていたー。
そんな調子で、呆れられていたと思うが、それでも一度だけ私自身自主的に拒否反応を起こした出来事もあった。
それは鶏小屋の鶏糞干しをスコップでやっているとべットリと鶏糞がスコップにくっ付いて離れない!なかなか上手くいかないでもたついていると、外出先から戻って来られた我が師はそれをご覧になって、「手でやらんか!」と怒られる。
(えぇッまさか素手でやる事は無いだろう)と、手袋を取りに行こうとしたら「何やってんだバカもん!こうやってやるんだ!」と衣をたくしあげて自ら素手で鶏糞を掴まれた!いや驚いた!(まさかー)私もついに観念してやりましたが、ベッタベタで気持ち悪~。
寺に入って十日も過ぎた頃、我が愛犬“鉄”の子、弓月の為に犬小屋を造りました。
その時師は私に、「釘の打ち方が上手だ!」と。
なんと、なんと!私が寺に来て初めて、この私を褒めて下さった!
私は突然のことで嬉しくなって、釘の頭が霞んだが、それでも構わずバッカンバッカンと釘を打ちつけると、師は頭の上でゲラゲラ笑らわれる。
私はますます照れながらそれでも嬉しく五寸釘がひん曲がっても無頓着に打ちつけていると、師はそれを見て「オゥオゥオゥー」と言いながらも大笑いー。
私も照れ照れ笑い!この時、師と私は一体全体となって何もかも師は私を受け入れて下さった気がしました。
第9章 無功徳常精進
それから千日、見事にしごかれました。
「一を見て百を悟れ!そして何事にも親切であれ!」が我が師からの命でありました。
その実践は、「今ここに成り切れ!結果を求めない働きに働け!“無功徳常精進”」この教えであったのです!
師は私に毎日の作務(禅寺における労働)を通してこの教えを叩き込みました。
何事をやるにしても「やり切れ!なり切れ!」ちょっとでも理屈やその結果に不満を言うものなら百雷の雷!一気に落つるが如しでありました。
我が師の禅機は凄まじく、毎日気の抜けない張り詰めた日々でした。
例えばこういう事がありました。「博永~~ッ!!」と、毎日幾度となく呼ばれた事か!私は間髪を入れずに「はァ~いッ!」と応えるのが常でした!
師は「裏門の溝にタバコの吸い殻が落ちとる!拾ってこい!」と、怒鳴られる、私はすかさず、「はいッ!」と飛んで行くが、見つける事が出来ず、戻って来ると「排水溝の横だ!お前には見えんのか!このバカもん!」私は「はい!」万事この調子でありました。
もしその時に「師匠さまが見て知っているなら自分で・・・」などと考えるものなら師の気合いにはついて行けないのです。
師の活殺自在な禅機が私に必要なことは、師が毎晩のように「怒られる事は本当に良いことなんだ!力をつけろ分かったか!」と諭してくださったお陰で十分に承知しておりましたし、何と言っても間髪を入れずの呼吸は小僧としても実に痛快でありました。
私の毎朝の日課は朝6時(数秒の狂いも許されない)の鐘突き、そして朝のお経それが終わって作務は廊下の拭き掃除!
これが大変。わずか五十メートルの外廊下でありましたが、まず箒で掃いていると、障子越しに「なんだ!その掃き方は!」と怒られる。「えっ見えてないのに」と思っていると、ガラッと障子を開けるなり「こうやって掃くんだ」と実演して下さる。なんと、箒を真っ直ぐに立て両手首を交互に回転させてサッサッサッサッと見事な箒さばき。
流石・・・
そして云われる事には「箒の先は平らに減るように掃け、箒を床にこすりつけてどうするんだ馬鹿者、ゴミだけを掃け!」
成る程・・・、これは難しいー。
その後の雑巾がけ、これがまた大変な雑巾がけで…普通ではない!当たり前ではダメだった。板は総て横板だから雑巾がけは真っ直ぐに走るわけにはいかない。
普通にセッセと拭いていると又怒られる・・・、「拭き残しがある!」とおっしゃる、成る程蛇の通った後のように拭くものだから、敷居側に三角形の小さな拭き残した後が点々と続く・・・、では丁寧にセッセと、ではダメ!サッサッとやれと云いながら、お手本はクルクルイチニッサン横横、クルクルイチニッサン横横~~、であった。
(理に叶ってる、けど大変だっ)
それでも十日も過ぎた頃には師は障子の向こうから音を聞くだけで「だいぶ箒さばきも良くなったなぁ」と云いながら満足げなご様子。
庭の拭き掃除の時もありました。いつものように竹箒を、教わった内箒さばきで得意げに掃いていると、下駄履きでカツカツと近づいて来られたかと思うと突然、泰山木を揺すり始めたではありませんか!もちろん葉っぱが落ちる・・・、(せっかく掃いたのになぜ!)と考える間もなく師は「下が見えても上が見えんのか馬鹿者!」と捨てぜりふを残し行ってしまわれた。成る程!枯れて今にも落ちそうな葉っぱがいっぱいくっついていた。
拭き掃き掃除も身に付きいろいろ要領も得たころ、ついにやってしまった!
毎日拭くあの廊下、なんとかもう少し手際よく簡単に拭けないかと考えたあげくの果てに、要領良く、横板とは反対に、ついに立てに拭いて走った!
早い早いあっという間に終わった!なんとなく気が引けたが要領良く楽だった!
ところが想像しなかった事態が起きた。雑巾がけの後の拭き筋が消えない!実に醜く、その跡が私を責め立てる!その後慌てていくら横拭きに拭き直しても横着な後は消えない!今度は自分でも分かった。(怒・ら・れ・る~)
でも何故か師は、何ともおっしゃらない。それがよけいに自己嫌悪感で息詰まる、その日一日中冷や汗もので辛かった。師は私の事をいつも「鞭の影を見るだけで走る名馬に仕上げる」と言っておられた言葉が、その日だけは皮肉に聞こえて、変に身に染みた。手抜き、ごまかしはダメっである!!
それにしても師の禅機はとにかく凄まじかった。