第8章 寺の生活

寺の生活にも慣れたある夜に、師の部屋の障子の前に正座して「質問が有ります!」と申し上げますと、師は障子越しに「何か!」私は、「世界平和とは何ですか」と問うと「まずはお経を覚えろ」
(うわ!かっこいい・・・)
たしか禅の問答にそんな調子で書いてあったのを思い出し、一人前になった気分で嬉しかった。
次の夜も風呂上がりに障子の前に正座して、「世界平和はどうしたら実現出来ますか」と問いますと「入れ!」と仰る。
障子を開けて中に入るなり「お前は同じ事を何度となく聞くが、世界平和のために出家をしたのか!」と仰るので、私は得意げに「はい!それを使命と感じております」と申し上げますと「非力の菩薩、人を救わんとして溺ると云うではないか、よいか力をつけろ!そのためには今ここに成り切れ!お経を覚える事もそうだ!世界平和、世界平和と先に見据えるな、今ここ!自分を棚上げせずにやれ!」怒られた!何とも素っ気ない・・・。
しかしその後、笑顔で「非力でもなぁ、他のために飛び込む事はそれは素晴らしいがなぁ」と仰っていただき安堵した。
そして、六月のある日、私は道元禅師の正法眼蔵髄聞記を読んで衝撃を受けました。
その教えは本当に私を勇気づけてくれました!そして私は目覚めた!
それまでに無かった自立心に一気に目覚めた。
次の日の朝、清々とした気分になって背筋は伸び、目もきりっとして力がみなぎり、凛々しくしておりますと、師は「お前どうしたんだ!」と仰いますので、私は待ってましたとばかりに申し上げました  「随聞記を読んで悟りました」と。
師はニヤリとされて、「うん、そうか!」と仰ただけでした。
しかしそれからが大変だった!師は何事につけても急に厳しくなられた。
私はある時思い切ってそして正直に尋ねました。「どうして急に厳しくなられたのですか」と、そうすると懇々と諭すように「お前はなぁ~、今までこんにゃくか豆腐みたいだった、ちょっとでも突っつくと壊れてしまいそうであったぞ」と。
(面目ない・・・)

第7章 小僧生活

小僧生活昭和四十年三月十九日、私は自転車の後ろに着替えその他日常に必要な物をダンボール箱三箱に詰め込んで載せ、これから始まる質素な禅寺の生活を覚悟して意気揚々と寺に入りました。
しかし、初日の夕食は、私の一番苦手な鰺の空揚げでした。でも皆でお経を唱えながらの食事はうれしかった。
寺の生活の初日は元気で張り切っておりましたが、どうしたことか三日過ぎた頃からやたらと淋しくなって、山門を見る度に強迫観念に襲われ、打ちのめされました・・・。
(もう門から出てはいけないんだ、家に帰れない!両親と兄弟にも会ってはいけない・・・、友とも、もう会うことは許されない)と思うと寂しくなって、本堂の横の日溜まりで、頭からタオルを被り寒さに震えておりました。
・・・
ところが得度式(出家)の準備とかで、一週間後にその用件を両親に伝える為に家に帰されました。
その日、父は私に向かって「もう寺に帰るな!」と大激怒いたしました。それもそのはずで、信じられない事ですが一週間の間に体重が八キロも落ちていたのです。
小僧生活 右の写真ですが、私は拳を握り座っております。
僧が座る時、手は法界定印といって坐禅のときと同じ形にする習慣を私は知っていたのですが、しかし出家後の記念写真を撮る時、私はその燃え上がる感情を抑えきれずに、あえて手を拳にしたのです。
師はこの写真を見て案の定「何だ!この手は!?隣にいる僧も何で注意せんのか!」と、オカンムリでありました。
しかし、次第に私の気持ちが通じていったのか「まあいいか・・・、いやこれは面白いかも!?いかにも、なぁ、やる気がでててー、うん!!ええで~、これ~、やるぞ!ってー、アッハッハッハー、お前らしいなぁ、ええ記念写真になったでぇ」と、顔を紅潮させておりました。
私は、気持ちが通じて、嬉しかった。

第6章 我が師

私が出家した寺は奈良の箸墓古墳の近くにある禅寺で、その当時、そこには永平寺大本山から特使として派遣された、宗門の逸材、将来は禅師と嘱望されていた、高僧丸山英智老師が住職しておられました。
何も知らない私が、ただ一途な情熱を抱いて門を叩いたのが十七歳の春でした。それから毎月一回の参禅会に参加しながら、人生如何に生くべきかを問い続け、そして機縁が熟して出家を決心いたしました。
ある日私は出家の志しを固め、意を決して丸山老師に入門を願い出ました。すると老師は「入門とは何か!」と、今まで聞いた事もない腹の底に響くような声でおっしゃるのです。
私は内心(そら来た!)と思いました。(これぞ、彼の有名な禅問答なんだ!)と腹をくくり、少し緊張気味で、しどろもどろにごちゃごちゃと、しかし最後はしっかりと説明申し上げました。
すると「な~んだ弟子にしてほしいと云うことか!」と、さらりとかわされ、少し拍子抜け気味に「ハァ・・・、はい!」と言うと、「ならば両親を連れていらっしゃい」とおっしゃりました。
冷たい!!
(私は完敗だ!入門は命懸けの決心を師に伝えなければ許されないと本に書いてある、なのに老師は両親を連れていらっしゃいと仰る!やっぱり私の志しの未熟さを見抜かれたのだ!)と思い込んでショックを受け、辛く悲しくなりました。しかしこれが後に、落語にある『コンニャク問答』になるとは夢にも思わなかったのです。
私は真剣だったのです!
禅入門の書には『慧可はその意志の未熟さから、達磨に入門を許されなかった。そのため自ら我が腕を切り落としてその誠意を表した』と書いてある!
何も知らない私は、そうしなければ入門は許されないと本気に考えて、その後本当に腕を切り落とす段取りまで考えたのです!でも結局は、できずにただナイフを火に差し込み右手の甲に誓いの印を焼き付けただけでした。
自叙伝 我が師それからというもの、毎月の禅会毎に志しを正し、頭を剃って向かいました。
生活も寺に入ると一汁一菜だからと外から欠けた丼茶碗を拾って来て、禅会で頂いた割り箸を大事に、お粥と梅干しの食生活に切り替えました。
また毎日夜中の二時に一番気持ちの悪い神社にお詣りしたり・・・。
怖いから、でっかい秋田犬の愛犬“鉄”を連れて行くのですが、鉄が鳥居の前まで行くと嫌がって動かないのです!それでも私は行きました!
( 後日談として、坐禅会 H.Mさんが、この神社を2012年12月に行かれたときのエピソードがあります。こちらから
その帰りは安堵感からか昼間は車が激しく通る道にゴロリと大の字になって、愛犬に顔を舐められ仰いだ星空のなんと美しかったことか!
・・・
満天の星に心から出家を誓いました。
だが現実はその効果もなく、その後も師はなんとも言って下さらない。
それでも諦めないで我慢をしていると、ある日老師は「どうする?」と、おっしゃいました。
私は即座に!「はい!入門、いや弟子にして下さい!」と真剣にお願いしたら、「うーん?、だ・か・ら、一度両親と、会って話をしないとまずいだろう?」とおっしゃいました。
本当に老師は私の両親の許可を取って決めたかったようです。  ・・・あれから半年・・・。
でも決して今までの私の努力は無駄では無かった!としっかり自分に言い聞かせて、納得致しました。
だって、本に書いてあったのだから、出家のきびしさが・・・。
出家後に寺のお母さんが言うには、「あんたが弟子になりたい言うもんやから方丈はん(老師)どんなに喜んではったか、その後何も言わへんから、やっぱり若いから気が変わったのかなぁ~っ、て云うてはったで~」・・・、だそうです。

第5章 信決定

それから、いつだったか、何の時か 早朝五時過ぎでありました、石油ストーブの丸くかたどった網の、火がチロチロと燃え盛り、その輝きに目を遣って、ふとした時・・・、私の心の中に思いもよらないささやきが聞こえました。
私って出家するのかなぁ
・・・、と誰となく問い掛けたような、その瞬間!あの感動がやって来ました!
初めは静かに、そして力を増してついに有無を云わせず、気づいた時に出家していました!!
誰がその気分を注入したのか分からない。
そして一気に爆発した!
なんなんだこれは!腹の底から喜びが込み上げて、止める事ができないのです!
無条件である!何が嬉しいのか!その喜ぶ対象が無い・・・

第4章 出家を目指して

物心がついた頃から「どちらに転んでも大丈夫な世界って有るのか!」が私の命題でありました。
ちょうどその頃、NHKの大河ドラマ太閤記が始まっておりました。
(先頃、そのドラマの主人公であった、秀吉役の緒形拳さんが亡くなられました。私の人生の岐路にあって、暗示的な役割を演じて下さいました有り難うございました。心から御冥福をお祈りいたします。あなたは私にとって今でも秀吉です)
そのドラマの中で、織田信長が“人生五十年太く短く”と、謡い舞う場面がありました。私はその時、この“太く短く生きる”という言葉がえらく気に入って、その時(よし!私もどうせ生きるのなら太く短く、最高の生き方をしようではないか!)と深く決心をいたしました。
そして一番偉大な生き方は、なぜか「世界平和のために生きる事である」と考えました。そこまでは良かったのですが、その為にはどのように行動したら良いのか、それが分からず、ただその当時かなり影響を受けていた『アニメ鉄腕アトム』の世界や映画地球防衛軍等ともだぶらせて、自衛隊に行って最強の武器を開発しようと考えました。
しかし幼稚なりにも「世界平和は武力で成し遂げられるものではない」という事はすぐに気づき、次にテレビ、スーパーマンの中に出てきた精神世界に興味を持つようになって、超心理学を学ぼうと決心をいたしました。
しかしそれもまたどうにも現実的ではないと思い、半年を過ぎた頃には宗教世界に興味を持ち始めておりました。
その当時の私は宗教とはまったく縁がなく、それどころか十歳ごろからの私の僧侶嫌いは異常なほどで、金欄で着飾った僧侶を見ると吐き気がして、息を止めてその場を離れるといった具合で、そのような僧侶のそばで息をして抹香臭い匂いを嗅ぐものなら体が腐ってしまうと感じたものでした。
ところがある日の夕暮れ、地元の名士?が亡くなったのか、私の家に近い病院の前にズラリと、キンキラキンの花輪が並んでいました。その長さは優に100メートルを越えているのです!しかもそこを通らねば家には帰れない!仕方ない、そこを全力で(云うまでもなく息を止めて)走り抜けようと決心したその間、私は静かに深呼吸を重ね意を決しました。
「ヨーイ・ドン!」まっしぐらに走りました!無我夢中でした。しかし無理だった・・・。ついに途中であのみじめな息を継いでしまったのです。目がくらんで吐き気がしました!何故だか、あんなに墨染の衣に憧れている私であるのに、これも運命か!と心の中でそう思いました。
抹香臭い仏教は、なぜか私のDNA遺伝子が目の前で大暴れするため大嫌いなのです!それでも宗教を探し続けて行き着いたのが、ラジオの深夜放送、そこで聞いたのがキリスト教通信講座でありました。
毎晩首から十字架をかけてお祈りしていると、いつの間にか信心も深くなって、完全なクリスチャンになっていました。
しかし、どうしてもその先には行けず(あなた頼みの宗教では、どちらに転んでも大丈夫とは言えない)という幼少の頃からの切なる思いが湧き出てきて、ついに通信講座をも諦めてしまいました。
出家を目指して神の信仰をきっかけに宗教観が深まり、目覚めて人生に向き合うようになりました。
そして、次に自分なりに真剣に宗教を作る決心をしました。
それから1ヶ月ほどかかって理想的な宗教世界を練り上げ、ついに五つの信条なるものを考え、それを壁に書いて、毎日熱心に唱えました。
出家を目指してしかし、やっぱり納得がいかず、そろそろ五つの信条にも飽きて来た頃、遂に向こうからやってきました!
理想的世界がやって来たのであります。
ある日、何の気なしに立ち寄った本屋で遂に出会ったのです!《 禅 》しかもその入門書の中に表現されてある世界観は、実に私が1ヶ月間理想として考え出した宗教観と全く同じではありませんか!どういう事か・・・、とにかく嬉しかった。《 完璧な自己の自立と、普遍的世界との合一から実現される人類と一切の平和! 》
その思想が一気に私に向かって押し寄せてきました!力強く!そして抜群の説得力を持って・・・

第3章 幼い時の記憶

自叙伝 幼い時の記憶余談ですが、私の記憶は一歳頃から始まっているようです。後に出家をして、四歳頃までの色々な思い出を書き綴ったところ、六十いくつかの出来事を、あたかも昨日のように書き出すことができました。
そして、その中でも一番古い思い出として、これが私の人生の出発点となったのではないかと考えさせられる思い出があります。
それは、ある日の寒い朝、金色に輝く朝日をいっぱいに受けて、私は母の着物にすがって立っておりました。
母は近所の人に朝の挨拶をしながら、談笑し、そして縁台に新聞を広げました。
間もなく母が、突然驚きの声をあげて「えっ!ガンジ-が亡くなった!」と叫びました。
・・それからまた新聞を食い入るように見たあと、ため息まじりに私の方を見ながら「お前もなぁ、大きくなったらこういう人になってほしいなぁ!」と悲痛な声で囁いた、その言葉が今もこの耳に残っております。
その時私は、母を見上げながら『うん!わかった! なったる!』と、きっぱり言い放った事を記憶しております。 その時の情景と母から受けた強い印象が今も、私の潜在識の中にはっきりと刻まれています。
私が母の願いに応えて出家をしたのかと思うと、感慨無量であります。
なんと幸せな母子であることか!たとえその後に二人の辛い別れがくるとしても・・・。
そういえば先日、インドに深い思い入れのある人と話しをしていたとき、この話しになって、彼が「では、これからあなたはガンジーのように何をしますか?」と問われたとき、私は即座に「今、いつもガンジー翁と同じものを見ていますよ!」と答えました。その人は分かってくれたでしょうか?
それよりもその時・・・、私は、母との約束を思い出してなんとなく嬉しかった・・・。

第2章 幼少の頃

自叙伝 幼少の頃自叙伝 幼少の頃私は感受性が強く随分と変わった子供であったようです。
六歳の頃、街で出会った修行僧の姿に憧れて、その日から、近くの恵比寿神社の縁の下に潜り込み、修行者のつもりになってじっと座っておりましたが、これがなかなか居心地がよくて、それからもよく座っておりました。
ところがある日の夕暮れ、いつものように縁の下で座っていると、周りの暗闇が急に青白い空間になって、そのなかに光の粒が煌めいたかと思うと、静かにまるで生き物のように動き回り、しかも優しく私に寄り添っているではありませんか!
自叙伝 幼少の頃  それに対して恐怖は無く、それどころかそれがお遊びのようで楽しく戯れておりました。
今、思い返してみても、不思議な現象で、あれはなにかの囁きであったような・・・。
兎に角それを契機に私の人生は精神世界に、導かれていったように思われます。

第1章 発心

私と太極拳の出会いは古く、私が八歳のころで、今から半世紀も前になります。
確か三本立て映画が50円の時代でした。その当時の事が懐かしく思い出されます。
スクリーンに映し出される白黒映画の始まりは、巌に打ちつける荒波に続いて三角マークの中に東映の名称が入り浮き出て来るというものでした。
その直後に、ニュースの字幕、そして始まりは、解説者のお公家口調がなんとも特徴的で、スクリーン全体を煙ったく感じさせるものでありました・・・、懐かしい思い出です。
そのニュースで、ある時中国を紹介する番組がありました。その出だしに、一人の老人が足にゲートルを巻きながら農民服を着て現れました。見るからに哀れな様子であっりましたが、立ち止まった瞬間は大きく見えました・・・。
それから何気なく静かにゆったりと、そしてだんだんと力強く雄大に動き始めたのです!
(えーっなに!・・・)と思ったその時の衝撃は、その画面と共に今もはっきりと憶えています。
しかしその当時の私は、それが何なのか?又それをどのように理解して良いのかわからず、ただただ深い感動と、無性にやりたい・・・、という切なる衝動に駆られたことを記憶しております。
今にして思えばあの時代にあって、子供心にも哀れさすら漂わせたあの老人が、突如としてそこに、人間の尊厳、何にも動じない崇高な自立心と限り無き自由の姿を見たのでした。
私が四歳の頃に受けた人生の悲しみは深く、今も心の奥底に残っております。
その苦しい思いが、もの心つく年頃になって蘇り「どちらにどう転んでも大丈夫な世界はないのか!」』・・・という言葉となって吐き出されました。
そしてこの言葉が私の人生を決定する人生観、世界観となったのでした。
確かに ー あの日の老人の姿には、幼い当時の私の傷を癒すなにかがあったのです。
・・・そう、あの時何かに気付いたのです。
・・・偉大なものに・・・
それが私と太極拳の出逢いでした。

山口博永道長について


1947年大阪市天王寺区に生まれる。
8歳のとき、ニュース映画で太極拳を見て、その動きに人間の尊厳を感じる。
16歳のとき、「 どっちに転んでも大丈夫な世界は無いのか! 」 という人生観に目覚め、達磨大師の思想にその解決を求め、その後、1966年慶田禅寺 丸山英智老師について出家。
1972年  原田祖岳老師の高弟・原田湛玄老師に出会い、その後福井県仏国寺に安居。
1973年、仏国寺にてカナダ人から太極拳の手ほどきをうけ、
1975年から、本格的に太極拳を学ぶため台湾に実質3年間滞在し、 劉雲樵大師及び劉大師高弟 徐紀老師に指導を受ける。
1979年、大陸が解放されたことを知り、太極拳に渡り、19代伝人陳小旺老師に出会い、
1982年より、河南省陳家溝で、19代伝人 陳小旺老師、及び王西安老師に25年間指導を受け、その後、北京で馮志強大師に指導を受ける。
1979年  不老山 能忍寺(千葉県館山市布良613-3) 住職に就任。
 
現在は、首都圏を中心に、太極拳、坐禅会、不二一元論の勉強会を主催。
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