4月8日更新:《善いも悪いも無い世界がある》太極の理と新型コロナ流行について:一般会員の方と道長のメールより

下記の内容は、2020年3月20日に道長と一般会員の方とのメールのやり取りの内容です。道長より、「今回の新型ウイルスに対して、太極の理に照らしてとらえようとしている姿勢に私自身も共感を覚える。是非、他の会員の人達にも読んでいただきたい。」と依頼がありました。(4月4、5、8日に更新あり)

新型ウイルスの世界的流行によって、先の見えない混乱を招いてますが、一人一人が真剣に「命」に向き合うきっかけとし、「闘い、奪い合い」ではなく、「助け合い、共存」の実践の学びとして参りたいものです。まさに「太極」「天地同根、万物一体」を参究し実践して参りましょう。皆様も会員ページに御感想や思いを是非お寄せください。

***会員さんより***

山口先生
お久し振りですヽ(^○^) お元気でいらっしゃいますか?
そちらは桜が見頃でしょうか?🌸🌸

様々な有事がありますが、どんな時にも 太極の理を忘れずに、生きて参りたいと思います。

今年流行が始まった感染症流行に付いて、入ってくる情報を聞きながら、様々な思いを巡らせている今日この頃の私です。

山口先生、道交会の皆様に置かれましては、どんな思いでこの状況を迎えられておられるでしょうか…?

***道長より***

太極の理

その力学とは🙏

正に “愛” ですね……………

ウイルスは神からの贈り物

太古の時代
生まれた我が子

卵が 知らないうちに取られしまう

取られるその親の悲しみを救ったのが、ウイルスだと……………

たしかに
ウイルスからの犠牲も大きかったのです

そのウイルス(補足参照)がいつの間にか!遺伝子とむすばれて胎盤を創る原因となるとは……………

母は我が子を危険な卵から胎児として守り抜く
強い母性愛をいただき‼

神の愛を知る
とは……………🙏

正に
➖ ➕ は
統一の太極

愛ですね‼

***会員さんより***

今ほどメール頂き、
感謝に打ち震えています‼
次にお送りするメールは一週間前に打って、保存しておいた物です。
私の考え方か一週間経った後の状況の中で適合するかどうか確認してからお送りするつもりでした。

今日、山口先生から頂いたメールを拝見し、お送りする許可を頂いたように思い、お届けする事に致しました。

そして その続きも又、お読み頂きたく、後程お送り致したいと思います。お時間のある時、宜しくお願いいたします。

  私はこのウィルスは、 これ迄の感染菌とは全く別の、何かとても深い意味や使命を携えて発現した、一種のエイリアンのように思えるのです。

…もし、この様な私の文に嫌悪されましたら、どうかこの先は《こりゃSFじゃ》と笑いながらお読み頂ければ幸いに思います。

全世界の人類が、人間由来ではない共通の問題を、同じ時間のなかで、共に体験している―。

これ程科学が発達し、成熟した文明を迎えながらも尚、八方塞がりの状況が起こり得る事を目の当たりにしている今、《一体これは何が起きているのだろう…?》と考えざるを得ません。
テレビ報道では、
感染者数や状況報告の後、「悪いのは人間ではありません!悪いのはコロナウィルスです!」
「この憎いウィルスを撃退できる迄、皆さん頑張りましょう!!」
とアナウンサーがヒステリックに叫んでいます。

確かに私も今のこの状況やそれに対する対策を受け入れ、粛々と日々を送っています。

でも、太極拳をしているとどうしても別の視点が現れてくるのです。

―《善いも悪いも無い世界がある》

コロナは本当に《悪》なのでしょうか…?
そして、私達だけが《善》で護られるべき存在なのでしょうか…。

どんな自然災害も戦争も、感染症も事故も、確かに人類にとってかけがえの無い生命や物資を奪い取る苦難に違いありません。

(中略)

今年は日本が主催国となるオリンピック、パラリンピックの年ですが、今の段階では残念ながら規定通りの開催は不可能と思われます。でも、この歴史的有事において、各国がこれ迄他に公開してこなかった様な
政治的、経済的、国家的な状況を晒け出して世界的な問題に心血を注いで取り組んでいます。

各々の国の対策や手腕、知恵比べは、規定のスポーツ競技ではないにしろ、さながら《オリンピック、パラリンピック》ではないですか‼

私は感染症発生当初から、
《何故、日本がオリンピック・パラリンピックの開催地の年に、このような世界的な有事が発生したのだろう…?》
と不思議に思ってきました。そして(有難い事に)若年の方々への感染率が低い事にも…。

―現象とは、ある日突然降って湧いてくるものではなく、空中を漂いながら常に自分の周辺をぐるぐると
回っているものだと思うのです。

そして、「あっ!これは使えそうだぞ‼」
そう思った物をパッと掴み取る。

宇宙万物の目標は「進歩・進展」なのだから、個々の魂が真に必要としている
道具・教材となり得る現象を潜在的に選び取り、その体験を通して知らぬ間に成長を成し遂げている。

そこに人間が独自に選別し固定化した 道徳的な善・悪の入り込む余地はない。ように思うのです。

このたびの地球規模的な集団の選択は、近年起きている、人類が《他者》から隔絶を望むミクロ的な(個々の人間の中の)潜在的心理が臨界点に達して噴出した、マクロ化現象で、その道具としてコロナを選び取ったのではないか。そのような気がします。

私はこの背景に、宇宙や地球の進歩・進展にそぐわない機械化、歪んだネットなどによる人間同士の繋がりがあるように思えます。

全世界が長年盲目的になってしまった物質、金銭、政治経済といったものを一旦クリアにして、人類全てが手を取り合い、知恵を出しあい、協調する術を選択する事で進化出来れば、コロナは道具としての役割を終えて姿を消してゆくと思うのです。

コロナとの戦い。《これは戦争だ‼一日も早く撲滅の方法を‼》大人が叫ぶ中で最近は少しずつ、少しずつ、日本人特有の優しい他者を思いやる気持ちが芽吹き始めている報道を、耳にするようになってきました。
主に自宅待機をしている
学童や保護者の方々からのものですが、正に小さな、オウムの涙ほどのその思いは、明るい光を放つタンポポのように希望を与えてくれます。
自然災害を多く体験している日本人が、オリンピックパラリンピックのこの年に、競技による勝ち負けではなく、無念な思いだけではなく何かを世界に届ける事が出来る日がくるかもしれません。発信し続ける事。
必ず来るはずです‼

コロナとのバランスを取るという事。闘い、どちらかが生き残る迄闘い続けるのではなく、―その役割を理解し、同じくらいの感謝と愛を以て接する事。

善があると無いとが無い世界に、私達は住んでいる筈なのだから…

***道長より***

有り難うございます

同感で~~~す(^-^)

善の美しさ🙏

悪の素晴らしさ🙇

全て自分を学ぶ
暗示ですね🙆(⌒∇⌒)ノ””

***会員さんより***

山口先生

お忙しい中、お読み頂き
有難うございました☀
がんばりますヽ(^○^)ノ

***補足資料***
東京大学大学院農学生命科学研究科 今川和彦教授の発表より一部抜粋

哺乳類は長い進化の中でウイルス遺伝子を内在化し、その内在性レトロウイルス遺伝子(群)の機能よって胎盤を発達させてきた。このことは、いま見ている胎盤はベストなものではなく、新しいウイルス遺伝子の獲得によって、さらに変わりうる可能性も持っている。さらに、胎盤の形成やその機能の発現には内在性レトロウイルス遺伝子の発現が必須であり、その機能評価無しには哺乳動物の胎盤は語れなくなった。

*詳しくは下記を参照
https://www.a.u-tokyo.ac.jp/topics/2015/20151005-1.html

***4月4日:道長より***

ドイツ人(注1、注2)の詩の日本語訳です

どうぞ

注1:リヤ・ソコル –ポーランドのボーカリスト、歌詞作家、パフォーマー

ありがとう。私たちを揺さぶってくれたことに。私たちが思っているよりずっと大きな何かに、私たちがまったく依存していることを、あなたは見せてくれた。

ありがとう。私たちが今どんな豊かさの中に生きているのかに気づかせてくれて。ありあまる品物や自由と健康をほしいままにし、私たちはそれを当たり前のように思っていた。

ありがとう。私たちを立ち止まらせてくれて。おかげで私たちは忙しさの中にどんなに自分を失っていたのかを見ることができた。その中で私たちは、いちばん基本的なことをないがしろにしてきた。

ありがとう。おかげで私たちは、あんなに大事なことのように思えていたあらゆる問題を忘れることができる。そして、何が本当に大事なことかを見ることができる。

ありがとう。交通を止めてくれて。地球は環境がどんなに汚染されているかを見て欲しいと長いこと私たちに訴えてきた。だけど私たちは耳を傾けてこなかった。

ありがとう。このすべての恐怖に。恐怖は何年も世界的な病だったのに、私たちの多くはそれに向き合おうとしなかった。今、私たちは恐怖に向き合わざるを得なくなり、愛と周りの人々の支えとで恐怖を抱きしめることを学ばされている。私たちの人生をこんなふうに見直させてくれてありがとう。

ありがとう。私たちは今、ようやく理解することができる。私たちは皆つながっている、ということが何を本当に意味するのかを。

ありがとう。私たちの間のつながりに。世界は変わらなければならないということはわかっていた。私たちがすべてを壊すのを助けてくれてありがとう。これで私たちは世界を初めから作り直すことができる。

このウィルスは私たちの一部。私たちの中にあるもの。このウィルスが私たち皆をつなぎ合わせてくれる。物理的にもエネルギー的にも。
感謝の念は免疫システムを強化するけれど、それだけでなく、物事を多くの側面から見ることができるようになる。どの側面から見ることを選ぶかは、私たち自身が決めること。だけど、最上なのはすべての側面をしっかり見るということ。

***会員さんより***

山口先生

今、本当に知りたかった本質に触れる事が出来ました‼嬉しくて感激の涙が吹き出ました‼

コロナさんが私たちに本当に告げたかった事を、この方を通して教えて下さったのだと思います。
全人類に、1人でも多くの人に伝えたい‼

でも、今この文に触れる事が出来るのは、限られた人だけかもしれない。
一人一人がコロナさんの声を聴けるようになる為にはとても多くの時間が必要かもしれない。

今感染して苦しんでいるのは私。日常生活の中で怯えているのも私。手を尽くしている医療従事者も私。無防備に無関心でいる人たちも私。そしてコロナさん自身も私。―その事に気が付きさえすればすぐに聴こえてくる筈。触れる事が出来る筈。

情報番組を離れると 本質が自分の最奥から溢れ出してくるのです。

ああ…‼何というギフトに遭遇しているのでしょう‼
周りに誰一人同意してくれる人が居なくても、
この強い思いはコロナウィルスという現象として発現したんだ。
という確信を、このドイツの方のメッセージから。そして山口先生から 教えて頂きました。

有り難うございました‼

これから開発されるワクチン(否、その無敵のワクチンすら、自分自身なのかもしれません。観察が必要です)。その効力とはどんな物なのでしょうか…。

解明出来る現象が、又次々に発現する事でしょう。

山口先生、ご紹介頂いた事に改めて深く感謝申し上げますm(__)m
何人かの知人にこのメッセージを届けても宜しいでしょうか。
特に、もう30年以上お世話になっている私の主治医にも励ましのエールとしてお贈り出来たら。と思います。
宜しくお願い致します。

***道長より***

はい (⌒∇⌒)ノ””

正しいメッセージはどんどん発信しましょう
了解 ですd(⌒ー⌒)

***会員さんより***

有り難うございます~
ヽ(^○^)ノ

早速送らせて頂きました。\(^_^)(^_^)/m(__)m

***4月5日:会員さんより***

おはようございます
山口先生、昨日は素晴らしいメッセージを有り難うございました。

昨日1日で何回も読み直しました。夜中に目が覚めて又、読みました。

詩人さんは 新しく生まれ変わった地球の視点から今の地球を見て、このメッセージを私たちに贈って下さったのかもしれないですね。

新しい地球に向けての構想を描く希望を強く与えて下さいました❗

魂に直接届く免疫にも、ワクチンにもなり得る筈と思われます。

一年後、この偉大な詩が石碑に刻まれ、その下で東京オリンピック・パラリンピックで世界の人々がより強固な絆で結ばれる日を見る事を、とても楽しみにしています。
日本が主催国だったからこそ、それが可能だった。となれば、もう、サイコーですね ⤴⤴
日本はコロナに選ばれたのですから…。

その日を信じて精一杯、日々を生きて参りたいと思います。

m(__)m

追伸 《精・氣・神》最新号で、会員の皆様のお考えを伺う事を、楽しみにしております。

***4月8日:(注2)作者のコメント***

リヤ・ソコルです。「ありがとう、コロナウィルス」の詩と映像の作者です。
この作品が3日間で何百万回もシェアされ、世界中に広がって、何より、こんなにたくさんの感謝と感涙のメッセージを受け取ることになるとは、想像すらしませんでした。
希望をくれてありがとう、愛と信頼を広げてくれてありがとう、と溢れる感謝を受け取っています。

アーティストとして私はこの作品について何も説明する必要はありません。
これはひとつの作品で、たくさんの見方の中のひとつを示しています。

しかし、この見方が痛みと不公平感を引き起こすかもしれないことは理解できます。
向こうに苦しんでいる人がいるのに、なんてことを言うの、と。その通りですよね?

でも、落ち込むことがその人たちの助けになりますか?
私たちがこの危機にどう対処するか見ている子どもたちの助けになりますか?
それとも、祈りの中で愛と信頼、慈悲、光を提供することの方がより助けになりますか?

そんなに否定的に感じていたら、どうやって祈りたいと思えるのでしょう? 祈りを送るためには、私たちの光を輝かせる必要があります。

私もこのウィルスで複数の友人を失いました。
今、世界で起きていることは残酷なんてものではありません。

私は人生でたくさんの残酷なことを体験してきました。そんな私のいのちを救ってくれたのは感謝でした。もし人生のある時点で、幼少期の虐待体験に心からの感謝をしなかったら、私はその傷を癒すことはできなかったでしょう。もし私が癌に感謝しなかったら、今ここにいることはなかったでしょう。癌は私にやってきていのちを奪おうとしました。

ありがとうは最も深遠で力強い祈りです。
苦しみや死に感謝しているのではありません。
今生きていることに感謝をしています。
そうすることで自分自身のリソースを蓄え、他の人たちをサポートするのです。

それは自分の影響が及ばないことに対してゆだねる(身をまかす)ことをもたらします。

この映像をシェアすることは私の務めでした。亡くなっ方のために、生きている人たちのために。そして何より子どもたちと今、お金も健康もなく苦しんでいる人たちのために。

河南省テレビ取材の翻訳 

山口道長が今年3月に訪中した折、河南省テレビ局の取材を受けました。 この件で4月4日に河南省温県から発信されたウィチャットの掲載文を、横浜道交会の中村さんが翻訳して下さいました。以下はそれを更に山口道長が加筆致した訳文です。   ∞∞∞∞∞∞ 太極拳を学び、充実した人生を円満に生きる。  ……………………

日本の老人が語る半世紀に及ぶ太極拳の因縁話しを聞こう。
(1)
2019年3月の末に、王西安大師の弟子である、山口博永が10数名の弟子を連れて日本から温県を訪れました。
それは高級研修班として王西安大師から、太極拳の指導を受ける為でした。 山口博永は今から40年前の1979年に河南省武術協会を一度表敬訪問したことがあります。 その御縁で1981年に王西安大師と師弟関係を結びました。
その後は王西安大師の指導の下、本格的な太極拳の修練が始まります。 彼は毎年春には陳家溝を訪れ、王西安大師の下で太極拳の造詣を深めていきました。 山口博永は日本に帰国した後も中国で学んだことを弟子達に伝え、その結果、多くの日本人が彼の積極的な指導のもとで太極拳を学び始めました。
ところで山口博永は出家人で、禅の道を歩んでいることから、太極拳の合勁は坐禅と同じく丹田を重視することに気がつき、練習の合間には人体力学の方面からも、王西安老師と興味深く話し合いをしました。
この度は、山口博永の太極拳歴40周年を記念して 王西安大師が彼に “ 太極禅人 ” の称号を与えると共に、弟子の申長明に命じて自身の練拳の姿を描かせ、その横に言葉を添えて署名をし、山口博永にその書画を自らの手で贈呈いたしました。 これは二人の師弟関係が40年の長きに渡る強い絆の証であり、深い友情の賜物である。  ………………………

(2)
過去に彼の心に刻まれた太極拳の出会いと、ある朝の思い出。  ……………………  幼少時代の山口博永は、決して一杯の芳醇なお酒の味を味わうことは無かった。 幼少の彼は温かみの少ない環境に育った。 彼は人の情の移り変わりの激しさや、思いやりの少ない世の中のありさまを敏感に感じとり、幼な心にも、自立とその強さを求める日々を過ごしておりました。
八歳のある日、彼は偶然にも映画館で中国のニュース映画を見ました。 その中で髭の真っ白な一人の老人が、田んぼの畦道を歩いて行きました。 そしてある広場に出た その時です! なぜか老人の背筋が伸びて気高さに満ち溢れ その後、雄大に動き始めたではありませんか!。 勿論その時彼は、それが太極拳だという事をまだ知りませんでした。 ただ映画の中で、弱々しく思えた老人が、突然威厳と尊厳を併せ持った崇高な人間に変身出来たのかに驚き、子供心にもその姿を見て、自分もそういう者になりたいと、強く心に刻み付けました。
見終わった後も、かつて味わったことが無い程に深い感動に包まれていました。
そしていつしか彼 の心の中には、いかにすれば人間としての尊厳および自由と平安が獲得出来るのかが目標となっていました。 年月は過ぎて、山口博永も立派な青年と成長していきました。 彼は、無条件にして大丈夫な、安らぎと自由を現実の中に追い求めていました。
そして、ついに19歳にして出家をします。 禅の道を歩み始めたのです。 更にそれから10年が過ぎて、博永28歳の時に禅の師匠様の元に一人のカナダ人が訪ねて来て寺に滞在しました。 カナダ人は毎日師匠様について坐禅を学んでおりました。
ある日の早朝にふと見ると そのカナダ人は寺の境内の一角で一人体操をしているではありませんか………しかしその動作に山口博永は釘付けとなって、なぜか懐かしさを感じ始めました 「その雄大な動きは何ですか」と尋ねると、カナダ人は「太極拳です」と答えました。 そうです!ついに出逢えたのです‼ 山口博永は呆然として、「それを太極拳と言うのですか‼」と再度お尋ねをします。
まさに8歳の時からずっと夢にまで捜し求めていたのが太極拳と言うものであったのか! 彼は云うまでもなく、その日からこのカナダ人について熱心に太極拳を学び始めました。

(3)
それから一年後、彼は日本を離れてインドに行きましたが、既に山口博永の心深くに太極拳の種が植え付けられていましたのでインドからの帰路、太極拳を深めるために山口博永は台湾に渡り5年間みっちり太極拳の基礎修練を積みました。
その後台湾で、中国の陳家溝が太極拳の発祥の地だと知った彼は、次に大陸に渡り太極拳を学ぶことが目標となったのです。
そして山口博永は、太極拳の真髄を求めて、海を渡り山河越えて遂に、陳家溝を訪問しました。

(4)
1978年、日中の国交回復により、両国の民間の友好団体の往来が始まったのです。 それを機に山口博永も民間友好団体に加わる事で訪問が実現いたしました。   この時に行ったのが中原の省都、鄭州であった。 鄭州では盛大な歓迎会が催され、武術の故郷である鄭州の達人が多数参加し表演をしました。
その表演会のなかで、伸び伸びとした太極拳の表演は彼の心を揺り動かし続けた。 特に一人の優れた中年の武術家の堂々とした太極拳の表演は彼の血を沸き立たせました。
彼は正伝の太極拳はこれだ‼と確信を得て、この陳氏太極拳の真髄を極めたいとの思いを更に強くした。
1981年、山口博永は日本国内に新たに陳氏太極拳の会を発足しその会の人たちと共に陳家溝を訪れました。その訪問を受けて王西安大師が小学校の校庭で炮捶を表演しました。 「この套路を表演している老師は三年前に鄭州の歓迎会で見た老師ではないか!」山口博永は感動し、急いでビデオカメラを取り出して王老師の表演する炮捶の全ての套路を撮影した。 陳家溝から帰った後も山口博永は毎日、王西安大師の套路のビデオをみて厳しい練習を繰り返した。
しかし練習をすればするほど戸惑いも深まった。 1986年、山口博永は願いをかなえるため陳家溝に行き、正式に王西安大師に師事し、その後王老師の下で数十年に渡る永く厳しい練拳が始まるのでした。

(5)
太極拳を学び、人生をやり遂 げ、涅槃に入る。  ………………………   年月はいつしか過ぎ去り、山口博永の太極拳の技法は、王西安大師の長年の心を尽くした指導により、日増しに高まり、今では日本で屈指の太極拳の指導者となり、そして今も太極拳を伝え広めるべく歩んでいる。
ところで中国での練拳の折、山口博永は王西安大師と共に度々お茶を飲みながら禅と、太極拳の関係を論じ合いました。 結果は、禅道の真理は自然なる ” 随 流 去 ” を重んじ、同じく太極拳も、任運自在なる運気で ” 従 に入る  ” 禅道と太極拳は、その名は異なっても、行き着く所は同じであると山口博永は気づいた。
王西安大師も、自然で柔らかい太極拳が一定の高見に達する時、僧侶が言う「禅」になると言う。 僧は寺で修行し、その求めるものは心の安寧であり、静を以って動を求め、自己を完成する。 太極拳の追い求めるものも人生の大境地であり、動中の中に静を求め、更に深い安らかさと大きな集中を求める。
修行を積む中で分かってくる事は、太極拳の合勁である ” 太極の気象 ” と坐禅中の ” 人体力学 ” が全く同じであるということです。 坐禅は、上陰下陽とし、太極拳は、上虚下実とする。
すなわち太極拳を練習することは、禅を修行することと同じで、人格を高め修養を積み涅槃に入ることにある。                                      ………………………
(6)
山口博永は今も、彼は毎日坐禅を行い太極拳を練習し、それらは山口博永の生活の最も重要なものになっている。 彼は毎日五時間ほど練習をするなかで、40分を坐禅、20分を太極拳の練習にあて、その静と動の中で人生の真諦を深く探り感じ取っている。
彼の太極拳はもう既に骨髄にまで入りこむと共に、太極拳は自己の人生を更に円満にしていると彼は言っている。 今では彼にとって、陳家溝は第二の故郷になっている。 彼は自分の余生の中でただ一人太極拳を楽しむだけでなく、禅の理の下に多くの人が太極拳を行じて心の安らぎと喜びを得られるように、世界に拳禅一如の行法とその文化を広めて行きたいと考えている。

山口博永と太極拳の縁
(1)
私が初めて太極拳に出会ったのは八歳の時でした。 八歳の時、偶然にも映画館で中国のニュース映画を見て、その映画の中に一人の老人が現れました。 その老人は部屋から出てきて畑の小道をゆっくり歩き出しました。 その歩く姿は憐れで弱々しくかわいそうにさえ思えました。
しかし彼は広々とした場所に出ると凛として立ち、ゆっくり動き始めたではありませんか。 その姿は先ほどの老人とはまったくの別人で、眼光は鋭く威厳に満ち溢れていました。  私は後に坐禅の世界に入り、坐禅の持つ神聖な姿を見た時、なぜか八歳のあの映画の老人の持つ尊厳ある凛々しい姿を思い出しました。

(2)
出家をした後、師匠様は私にどのように坐禅をしなければいけないか、いかに呼吸を調えるかを教えて下さいました。 坐禅で大事なその教えは[天地は同根である]の教えであり、それは太極拳で云う「気沈丹田」と「虚領頂勁」がその意味だと、後に理解しました。
師匠様は原田門下の高僧で、私はその師匠様の教えの下に十年間坐禅を修行しました。 十年過ぎたある日、私はどうしても実際に太極拳をこの眼で見たくなり、師匠さまに訪中のお願いをしました。 すると師匠様は「もし太極拳の真髄を体得したいと願うならば、必ず立派な先生に就かねばならない、そのような良い先生に逢えないようなら真髄を学ぶ事は出来ないだろう」と私に忠告して下さいました。
このようにして四十年前、当時三十数歳の私は希望を抱いて陳家溝にやって来ました。
なぜならば、太極拳発祥の地であれば、必ずや優秀な先生がおられるに違いないと確信したからです。 その当時の陳家溝は交通が非常に不便でバスで黄河を渡るとき車の渡る橋は無く、汽車の走る鉄橋をバスも利用して渡る有り様で、鄭州から温県まで三時間かけてやっと陳家溝に着きました。

(3)
陳家溝に着いて私の考えが正しかったことはすぐに証明されました。 私は陳家溝でたくさんの素晴らしい先生方にお会いしました。 その中でも私と真に心が通じあえたのは王西安老師でした。
なぜならば王西安老師の教え方は素晴らしく、呼吸と、内勁のあり方まで惜しみ無く、特に私に直接自身の身体を触らせるという方法で感じ取らせてくださいました。
この呼吸と内勁は秘伝であるにも関わらず……。 私は王西安老師のこの指導で、 太極拳の気の力学が理解できたことに感謝申し上げます。 王西安老師の指導には手抜きが無く、受け取り側の力量に応じて秘伝といえども惜しみ無く伝えて下さるその真摯な指導には心から敬服いたしました。 練習の時は、王老師は私に取って厳格な師でありましたが、練習以外の時はいつも兄弟のように親しく交わり、二人の関係に微塵の蟠りもありません。
(4)
私は十八歳から坐禅の修行を始め、禅を通じてずっと真理を探求して参りました。
そして、だんだんと霧が晴れるように覚醒して参りました。 ただ、私はなぜ坐禅をすれば真理が理解できるのか…………、それが分かりませんでした。
しかし今は太極拳を学ぶ事で、それが理解できるのです。
これは私にとって非常に大きな発見でした‼ 私は太極拳を武術としてではなく、その人体力学の方面から坐禅を検証することによって、なぜ坐禅をすれば悟りが開かれるのかが理解できました。
禅は心の覚醒的な活動であるため、迷信や魔境に陥ることも多くあります。
しかし太極拳が坐禅より優れている一つの点は、太極拳の力学は科学であり、迷信性は微塵も存在しません‼ その太極拳の力学で坐禅の時の人体力学が証明できれば坐禅の魔境は避けられます。 太極拳は人体力学であり、勿論その動作を観ることが出来るし、又体内の変化も触ることで知ることも出来ます。

(5)
アメリカの物理学者 F.カプラ( 著書 タオ自然学)は、太極拳は量子運動であると言っています。
たしかに、太極拳は陰陽二極の統一、太極の姿を通して ” 人の尊厳を具現 ”します。
それはあたかも電池の如くで、体内に陰極と陽極を設け、その陰陽二力の作用を知性という心の電線で繋ぐことにより、純粋智性の光が、万物を照らし出すのです。
ここから、私の禅の老師が私に言った丹田を絞る「気沈丹田」と後頭部を突き上げる「虚領頂勁」とは、即ち私の身体が一つの電池となり陰極と陽極が一本に繋がること(無分別智)で自然の絶妙な現象を智ることだと悟りました。
私は今年の2月に日本に来た十人のアメリカ人の精神科医に坐禅を教えました。 その際に私は彼らに腹式呼吸で坐禅の力学的な鍛練法を証明した所、彼らはそれを見るなり、非常に驚き感動し、それを学びたいと私に言い出しました。 実はこれこそが王西安老師にここで教えて頂いた逆腹式呼吸です。 坐禅の時も吐く息に従って気が下に沈んで行くと同時に、頭のてっぺんは自然と上に突き上げられます。 この天地二極は体内で統一され、一本の柱と化します。  立ってやる太極拳の天地合一の力量は座る坐禅の数十倍で、その勁力は非常に大きいものです。 私たちは普通、物事を考える時は良いことと悪いこと、即ち好き嫌いに分類します。
しかし天地両極が力学的に統一された時はその分別は自然消滅します。 ここのところを太極拳では、太極といい、この時の状態を禅では禅定と言うのです。 故に太極の気象に帰ると「無分別智」となります。
また 太極拳の開合運動により「運気」が理解された時、“ 従 ” の世界観が確立されます。 幾千幾万の練習を通して、従の世界観は、万物は一体の“ 大虚 ”に還るのです。 ここの消息を 一千年前の中国の有名な禅の老師である “ 宏智禅師 (わんしぜんじ)”が 「天地同根、万物一体」 と言いました。
私は数十年の修練を経て太極拳の原理から坐禅を証明致しました。
この太極拳と禅を一つにした新しい価値観を世界に問うていきたいと考えています。
現代人が因る生き方への不安や、日々における情緒の不安定は、太極拳と禅が結合することで有効に解消でき、生きる勇気と希望を得ることが出来ると信じます。

精気神25号発行に際して、道長のメッセージ及び一般会員の方からの感想

精気神25号 発行に関して道長からのメッセージです。
「精気神25号を読んで頂いた一般会員の方から非常に嬉しいメールが有りました 。(以下に掲載)
そうです。私の集大成です。 50年の学びから到達した境地です。 このようなお便りは私自身これからも精進する励みとなります。 有り難うございます」
 
**************
《精・氣・神》25号をお受け致しました。 有り難うございました。 m(__)m
これ迄の先生のお考えの集大成✨! とも言える、貴重な一冊をお届け頂きました。 内容別に番号が振られ、行間や太字がくっきりと刷られている為でしょうか …。 今号はいつも以上に、 どのお言葉も すーっと 私の腑に落ちる 有難い一冊となりました。 初心に返り、気を引き締め、これからも折に触れ 幾度となく 拝読させて頂く一冊として、大切にし、又、実践して参りたいと思います。 有り難うございました。 m(__)m

太極禅人

现在是宗教节目时间今天我们请来了千叶县馆山市能忍寺住持太极道交会会长山口博永先生就如下话题― 一个不管你倒向何方都没关系的世界禅和太极拳及其根作一次访谈
    山口先生昭和22年生于大阪,19岁在奈良县曹洞宗庆田寺出家之后,先后到镰仓的圆觉寺福井县的的佛国寺进行临济禅和曹洞禅的修行
山口先生开始学习太极拳是在昭和4826岁的时候之后,从昭和57年开始到太极拳的发源地中国河南省温县陈家沟,跟随陈氏太极的大师级人物学习太极拳,一直持续30多年之久通过多年的习练之后,
最后到达了和禅修相通的境地现在我们就请山口先生谈一谈如何在禅和太极拳这两条道路上艰难探索前行的过程
采访记者:平井
平井:在这个节目里,请允许我使用不管你倒向何方都没有关系作为题目这是你从小时候开始就一直非常珍视的话那么,这句话里究竟包含着什么含义呢?
   山口:我是在战后出生的一代那时的日本太糟糕了到处都是伤残军人无家可归的流浪汉以及态度蛮横的占领军这些均是我亲眼所见另外就是没有吃的,是最困难的年代在我上小学的时候放学回家后,第一件事就是看看米箱里还有没有米,锅里有没有饭。有饭吃的话,这一天就可以有劲去玩。如果没有饭的话,晚上该怎么过呢?每天都是在这种不安中度过。总之,这种纷乱的战后生活让我产生了一种想法:这个世上有没有一个不管你倒向何方都没有关系的世界?比方说,车辆跑动需要动力,有钱走遍天下,没钱寸步难行。
这些都是有条件的。究竟有没有一个有也行,没有也行,不需要任何条件的世界。这种想法随着一天天长大而逐渐萌发。这究竟是一个什么样的世界呢?不知道是怎么回事,我非常想知道,而且这种愿望越来越强烈.。
随着进一步的成长,到了1345岁时,我直观地感觉到:人是有能力的,是不是应该有一个可以远远超越人的能力的精神世界」。有一天半夜里起来,收听了一个基督教的广播函授讲座由于想了解基督教中的神于是,就做了半年的基督徒。小时候的心愿,尽管没能实现,但随着长大懂事,集中到一起后便确定了我的人生方向.
平井:可是你最终还是选择了出家,这是怎么一回事呢?
山口:有一天,我在书店里看到了一本禅学入门的书,当即就有一种感觉:迄今为止没能弄明白的问题,所有的答案都在这本书里。我的人生就在禅里。这是我在16岁时感觉到的。
平井:也就是说禅修也可以通往你所说的不管倒向何方都没有关系的世界是吗?
山口:是的。其实这个世界就在自己的心里而不是在其它任何地方,也就是佛陀说的天上地下唯我独尊」。当我遇见这句话时,我感觉到我的人生道路已经确定了。
平井:于是你就遁入空门那么,实际修行后又感觉怎样呢?
山口:没想到与想象的大不相同。刚开始的时候,干杂活的时间比坐禅多的多。每天从早到晚都是忙于寺里的杂务。我的师傅是一个非常严厉的人。打扫院子时,刚刚扫干净,他就马上跑过来,使劲摇树,树叶子就哗哗啦啦往下掉。临走时还说你能看到下面,但看不到上面。对于擦洗的活计,没擦到的地方,他也会随时指出,并告诉你应该怎样擦。扫地时告诉你扫菷应该平着扫,不能弓着扫等等,讲的的确也有道理。总之,对于日常寺内杂物的要求是非常严苛的。
平井:也干农活吗?
山口:干农活。当时师傅说无功德常精进」。没有功德的地方要经常精进。不要追求结果,不要为失败和成功所烦恼,要完全进入角色进入状态。在我进寺一个星期时,我曾经问师傅世界和平究竟是什么?师傅说背佛经去!」。然后我又问世界和平怎样才能实现呢?师傅说:进屋去!于是我就进到屋里。师傅说:泥菩萨过河自身难保。想要救别人自己先要学本事」。学本事就是要从当时当地,从现在开始,完全进入角色,专心致志。只有这样才能成功。师傅就是这样严格地教育我的。
平井:于是,你就在这个寺里修行了一段时间?
山口:修行了三年。在这期间,后来成为我的坐禅师傅的云游僧太田洞水来到寺里。他曾经在山里坐禅修行30多年,我很向往这种修行。他对我讲了很多有关坐禅的学问。我听得非常入迷。最后他对我说你听讲佛法时的眼睛闪闪发光,你有佛心。如果你想成为一名真正的僧人,就彻底抛开世俗吧!
平井:是说你听讲佛法时的眼睛闪闪发光?
山口:是的。是说我听讲佛法时的眼睛闪闪发光。有佛心是指有修行志向的人。他这样肯定我,并要我 抛开世俗。我的理解是,师傅告诉我:虽然你身已在寺庙,不是进了寺庙就算完事了,重要的是要磨炼自己。
基于这个缘故,我就进入了奈良的寺庙,开始了一心坐禅修行的人生。
平井:也就是说你从开始接触禅到最后进入禅门已是20岁啦。那你又是如何与太极拳结缘的呢?到底是怎么一回事呢?
山口:那是8岁时的事。当时,我到樱花影剧院看了一场新闻纪录片。在这场电影里出现了太极拳。有一位老人从房间里出来,沿着田埂步履蹒跚地走着。当他来到了一个空旷的场地上时,突然间迅速地伸直腰背,从容地打起拳来。其身姿和劲道给我留下了非常深刻的印象,同时也深受感动。甚至还产生了想和他一起打的冲动。
平井:当时,你还不知道它是太极拳吧?
山口:是的,连太极拳这个名字都不曾知道。不知为什么就像当初向往坐禅一样,总觉得那种形象是强有力的,让人放心的,或许可以说散发出一种威严和尊严吧。
平井:这件事在八岁时的你的心中产生了巨大的反响是吗?
山口:是的。但到真正接触太极拳则是20年以后的事了。那时,我在佛国寺。寺里来了一位想进行禅修的加拿大的参禅者,他其实是一位太极拳造诣很高的人,由于我非常想打太极拳,于是就跟随他学了两年。那两年的每一天都过得非常愉快。
平井:通过实际习练太极拳,你感觉如何呢?
山口:实际上和坐禅没有什么不同。动作缓慢,要深呼吸,集中注意力,聚精会神,专心致志。这一点上和坐禅是相同的。所以并没有感到有什么别扭。于是,想深入地学,深入地练的意愿越来越强烈。
平井:于是,你就于28岁时到台湾开始正式学习太极拳是吗?
山口:是的。本来是想去中国大陆的。但当时中国大陆还没有实行改革开放,去不了。就这样,来来往往地去台湾学习太极拳共持续了5年。后来中国大陆开始实行开放路线。
平井:就是改革开放吗?
山口:是改革开放。这下好了,那就去中国大陆学吧。当时的年龄是323当时的想法是既然学就去发祥地学正宗的于是就到了离郑州有3小时车程的温县陈家沟,跟随陈氏太极的19代传人学习太极拳
平井:19代传人指的是谁?
山口:是陈小旺和王西安他们是相当于日本江户初期的著名剑客柳生十兵卫那样的太极拳名家后来由于他们去澳大利亚不在中国国内,出现了空白等原因,我就去了北京,跟随一名早就认识的太极大家学习太极拳,他就是冯志强是陈氏太极的18代传人他之所以有名,一是因为他是陈小旺和王西安的师傅,二是他曾经对陈氏太极拳的套路做过7次修改,对陈氏太极拳的发展做出了巨大的贡献跟他又先后学了十年左右
平井:太极拳是一种什么样的拳?是怎样运用身体?不知道用什么样的语言来表达才好
山口:太极的意识,打比方说吧,就和电池一样,电池有阴极和阳极,也就是负极和正极负称为阴正称为阳如果用算式来表示太极的话,就是55=0这个零就是太极
平井:55,为什么是用5来表示?
山口:是的当然,10也可以,100也可以,1000也可以我们学习太极拳是从一阴九阳这种失衡的状态开始的然后逐步进入二阴八阳,三阴七阳,四阴六阳,最后到达五阴五阳的最高阶段这也是习练太极拳的人要追求的终极目标
平井:五阴五阳是指力量的平衡?
山口:是的是指力量的平衡状态将右手向上抬左手向下沉的时候,其实是一个反方向对拉的劲当这个劲达到五阴五阳的时候,就达到了太极的境界我们刚开始学的时候,说向右开就只知道往右,没有往左的对拉劲,是从这种失衡的状态开始的在零这个统一点上,失去了阴阳的平衡实际上阴阳平衡才可以产生零的统一即太极佛教说色即时空,空既是色其实就是五阴五阳的状态,是符合力学道理的综上所述,太极拳的学习要经过5个阶段。而太极拳的动力是来自重力,就是下落的力。由下落的力又会产生上升的力。跳跃就是先给一个向下的力才能使身体飘浮起来。
平井:重力也就是万有引力?
山口:是的是万有引力。
平井:这个重力毫无疑问会作用于人的身体,通过使用这种力,然后再通过肌肉的运动来发力是吧?
山口:不是。肌肉的作用基本可以考虑排除。当然也不是完全不使用肌肉因为站立本身就是靠腿部的肌肉。是指太极拳是一种充分利用重力的运动方式。在太极拳里有先天之气和后天之气的说法。后天之气是靠出生后长出的肌肉运动,称之为后天之气。于此相对应的先天之气则是只靠重力运动。是出生前就存在的气。进入第三个阶段时就可以利用先天之气了。第一第二个阶段是不可能的。第一个阶段学套路动作即可。每个动作套路都有名称,我们在刚开始的时候学的是8374式。都有套路名字比如,金刚捣碓懒扎衣单鞭白鹤亮翅等
平井:就是有各种各样的套路
山口:是的这个阶段就是形似的阶段熟练掌握以后就可以进入用气的阶段在这个阶段要求你利用重力
平井:不是勉强生硬地使用肌肉,而是顺其自然.
山口:坐禅和太极拳相同的地方就是人体在锻炼的时候,有三个要素,要进行身体呼吸意念的调整并且有严格的要求最终要把这三个要素合为一体达到熟练的程度此时,身心高度一致,名形完全消失,动作完全靠意念引导纵横腾挪如入无人之境从有形到无形是太极拳习练的第三个阶段再进一步就是从无形到心机阶段机的意识就是秘密,是一个重要的秘密由此我联想到 Einstein一句名言:事物的背后,总是深深地隐藏着秘密真实是单纯而又美丽的的确,内心世界的重要秘密就在那里从身体里进入,然后抵达内心世界这个重要的秘密就是统一心用禅学术语讲就是无分别智]」。是超越分别的智慧
平井:太极拳也有这样的状态?习练到一定程度可以深入内心?
山口:是的,可以深入内心印度的ThicNhatHan 把它简单明了地形容为精神高度集中入静后的禅定。首先是观察,一边观察一边进入禅定。
平井:你总是使用观察这个词。这也是释迦牟尼佛经常说的话。就是由观察开始,然后进入禅定是吗?
山口:是的。道元禅师将其表述为参禅修让你集中注意力,进入状态。这就是最初的观察阶段。
在完全进入状态以后,再往下走就会忘掉自我,这就是禅定状态。甚至连完全进入状态本身也会忘掉。
当你进入到忘掉自我的境界时,就会出现灵感的迸发。这就是进入心机。是无分别知。即没有了分别而知晓。
平井:也就是说禅修中的禅定和太极拳中的进入心机是相同的?
山口:是的。冯志强老师曾经说过,太极拳习练的最高境界就是要天地人合一。明白了这个道理时我才发现其实这一点和禅修是一样的。不过,直到最近我才明白,如果天和地合二为一,就成了一个没有分别世界。上不是下,下不是上,这是分别。但如果用一根巨大的柱子将上和下连接起来的话,就无法分开了,.就没有了上下之分。在这种无法分开的世界里,力学的意义上,我们的内心会进入一种无分别知的世界.坐禅也是一样的用力学术语讲的话,叫气沉丹田当你向下腹呼气,下腹充盈时,你的颈部会自然上拔
平井:你刚才所讲的不是理论,感言而是实际的身体运动?我想重新问一下,太极拳究竟是一种什么样的运动呢?
山口:太极拳的运动,有每一个动作之后,进入太极气象的理论比如74式太极拳,74次进入此种状态此时需要呼气,要把气沉入人体的中心丹田依靠重力自然而然地将双肩双肘及胸部的劲沉下去此时,颈部会自然上拔专业术语叫做气沉丹田,虚领顶劲
平井:也就是说在太极拳的动作中有这样的瞬间?
山口:是的如果认为我练太极拳只是手段,目的在于悟道,那是不对的在实际的练习进入高潮时自然而然地会出现那种状态用道元的话说就叫做修証一如就是在收纳的状态中直接悟道所以坐禅也好,习练太极拳也好都不是我的手段悟道是在禅修练拳的过程中自然出现的一种境地,一种精神状态称之为天地人合一
平井:太极拳习练时上的劲和坐禅时的情形是相同的?
山口:是的.,是一种相同的力学原理这是我从太极拳那里学到的.
平井:你从小时候开始就一直探索追求的不管你倒向何方都没有关系的世界,指的就是它吗?
山口:是的不管你倒向何方,是指不管你倒向天还是倒向地,是倒向前还是倒向后,是倒向左还是倒向右,由于完全连成了一个整体,.你就是想摔倒也没法摔倒.这才是真正的答案当天地连成一体时,由于知的力,可以产生一种心旷神怡的欢喜这是一个绝对不会有任何问题,可以开心微笑的世界人们所追求的欢喜安心自由和平会在心灵深处产生而不会受外界的影响.
平井:你所说的这些对于我这样一个不曾出家的人是无法体会和实际感受的.真实的情形又是怎样呢?
山口:我正是为了追求这一理想而出家的这个世界其实就在自己的心中天地合一后,一切和自己的区别全部消失存在本身会令人感动从这种意义上说,太极拳就是一种运动的禅,我一定要把它传承下去这就是我的使命
  ( 以上 我らが裴さんに、中国語で翻訳していただきました。)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                    
     
 

A World Where Everything Will Be Alright Whichever Way Things Fall: The Foundations of Zen and Taijiquan

A World Where Everything Will Be Alright Whichever Way Things Fall: The Foundations of Zen and Taijiquan
English translator   Andrew Carrico ( Edogawa Branch )
*The following was aired on May 25, 2018 on NHK Radio 2’s Shukyo no Jikan.
 
Narrator: Welcome to the program. Today’s guest is Hakuei Yamaguchi, abbot of Nonin-ji Temple in Tateyama, Chiba Prefecture and head of Taikyoku Dokokai. He will be speaking on the foundations of Zen and taijiquan (tai chi).
Mr. Yamaguchi was born in 1947 in Osaka City. At 19 he became a monk at Keiden-ji Temple of the Soto school in Nara. He continued his training in Rinzai and Soto Zen at Enkaku-ji Temple in Kamakura and Bukkoku-ji Temple in Fukui Prefecture among other places. Mr. Yamaguchi started learning taijiquan in 1973 when he was 26. Later, for more than 30 years starting in 1982 he took trips to China to learn Chen-style taijiquan, the oldest form of taijiquan, from the foremost masters. Mr. Yamaguchi says that after his years of training in taijiquan he came in touch with the place where the paths of Zen and taijiquan converge. Today we will hear him speak about this place he has arrived at by following the paths of Zen and taijiquan. The interviewer is Atsushi Hirai.
Hirai: We’ve used the title “A World Where Everything Will Be Alright Whichever Way Things Fall” for this episode. I’ve heard that this is a phrase that’s been important to you since you were very young. What do these words mean to you?
Yamaguchi: I was born soon after the War. Japan was in a very difficult situation during this period. I saw wounded soldiers and people living on the streets. The occupying forces came with their brazen attitude towards Japanese people. Worst of all there was nothing to eat in these times. When I was in elementary school the first thing I would do after coming home was check the rice bin to see if there was any rice. If I found rice I could play happily, but if not I would worry about what we would eat that night.
One thing I began to wonder during this period of post-war turmoil was whether there is a place in which, no matter which way things fall, everything would be alright. The world operates on conditions. If I have money I’m okay, if not then I have a problem. As I grew older I started to seek out the place where such conditions were not required for security, where I could be content either with or without. I didn’t know what kind of place that would be, but I wanted to know. And my desire to know continued to develop.
When I was around 13, 14 or 15, I instinctively felt there must be a spiritual world out there far beyond the capabilities of human beings. So one night I woke up and took a correspondence course on Christianity. I became a Christian for half a year as I wanted to know God. The feelings I’ve had since I was very young weren’t resolved at that time but the feelings were becoming consolidated as I matured and they started to determine a direction for me.
Hirai: And so eventually you became a monk. How did that happen?
Yamaguchi: I found an introductory book about Zen at a book store and for some reason I got the sense that all the answers to the questions I had been carrying with me were written in this book. When I was about 16 I felt that the true way of living for me was contained in Zen.
Hirai: And this concerns the world where everything will be okay whichever way things fall?
Yamaguchi: Yes. It turns out that this world is inside of me. It’s nowhere but here. It’s the place where I can stay unaffected by other things. When I encountered the Buddha’s words, “I am the one and only,” I felt like my life had been determined.
Hirai: So you went to the Zen temple in Nara Prefecture with such goals.
Yamaguchi: Yes.
Hirai: How was your experience training there?
Yamaguchi: Well, at first there was more time set aside for work than for zazen. I remember having to perform chores from morning to night. My teacher was an extremely strict person. After I finished sweeping the garden he would come out and sway the trees so that leaves would fall on the ground again. Then he would say “You see what’s down below but not what’s above!” and walk away. The same thing would happen when I was wiping the floor. He would point out spots I missed and tell me how to do it properly. But it made sense. “Sweep so that the tip of the broom will wear out flat!” “Don’t sweep in a way that will make the broom arched!” I was thoroughly gruelled while performing the daily chores.
Hirai: Did all this chores have a purpose?
Yamaguchi: Yes, it did. My teacher had a saying to the effect of ‘apply yourself diligently to that which is meritless.’ Don’t seek results. Don’t be troubled with success and failure. Just do what you are doing utterly. That’s what it meant.
About a week after entering the temple I went to my teacher and asked him, “What is world peace?” He said, “First learn the sutras.” Then I asked, “How can world peace be achieved?” He said, “Go in your room!” so I did. Then he told me, “The powerless bodhisattva drowns in his attempt to save others. So you must develop your power.” He taught me that developing power means learning to act fully in every moment and that this can be achieved through practice. I believe it was an education in devoting one’s whole body and mind to the situation at hand.
Hirai: Did you train there for some time?
Yamaguchi: Yes, I trained for three years. During that time a monk visited the temple who would later be my zazen teacher. His name was Tosui Ota and he visited the temple as a travelling monk. He had previously spent 30 years in a mountain just practicing zazen and I greatly admired him for that. After listening to him speak at length, his final words to me were, “Your eyes gleam when you are listening to the Dharma. Faithful one, if you are to become a true monk go into the fields!”
Hirai: He said that to you?
Yamaguchi: Yes, to me.
Hirai: He said that your eyes were gleaming?
Yamaguchi: Yes, that my eyes were gleaming when listening to the Dharma. He used a word referring to one who has the resolve to follow the true path. That’s how he saw me, and he told me to go into the fields if I was to become a true monk. At the time I was a monk in a temple and so I took those words to mean that I should focus on training myself. Eventually I left the temple in Nara and dedicated myself to zazen.
Hirai: You were committing yourself to the way of Zen. But in your mid-20s instead of limiting yourself to Zen you started practicing taijiquan.
Yamaguchi: Yes.
Hirai: How did this happen?
Yamaguchi: First, when I was eight I saw a newsreel about China at a movie theater called Sakurai Gekijo. That’s where I saw taijiquan. An old man came out of a room and plodded along a ridge between some rice fields. After he arrived at an open space his spine became erect somehow. When I saw him start to slowly move his body I was deeply moved. It left a mark on me. It made me feel like I wanted to join in.
Hirai: But at the time you didn’t know about taijiquan.
Yamaguchi: I hadn’t even heard the name ‘taijiquan.’ But similar to how I would later be drawn to zazen I caught a glimpse of something powerful, a steadfastness that humans can embody and its dignity and majesty.
 Hirai: And that resonated with you at eight years old.
Yamaguchi: Yes. It would be almost 20 years before I would come into contact with taijiquan again. While I was a monk at Bukkoku-ji Temple (Fukui Prefecture) there was a Canadian who had come to practice zazen. This person had actually practiced quite a bit of taijiquan in Canada. It made me really want to practice too and so I practiced with him for about two years. These were happy days for me since I had such a strong desire to do taijiquan.
Hirai: What was your impression of taijiquan after practicing it a bit?
Yamaguchi: Well, it didn’t conflict at all with zazen. The slow movements are performed with deep breathing. Zazen is also done with deep breathing and with concentration. Both are about fully committing to the here and now with concentration, so there was nothing unnatural about it. It only gave me a greater desire to develop my practice further.
Hirai: I believe you were 28 when you first travelled to Taiwan to delve deeper into taijiquan.
Yamaguchi: That’s right. I actually wanted to go to China but it hadn’t been opened to foreigners yet so I was unable to go. That’s why I went to Taiwan first. I travelled back and forth for about five years but during that time I heard that mainland China has started to open their borders so I decided to travel to the continent. I must have been around 32 or 33 when I first went. I continued to go every year for nearly 30 years.
Since I would be going to China to learn taijiquan I wanted to go to its place of origin. Taijiquan originated in Chen Village where it continues to be practiced. It’s about a three-hour drive from Zhengzhou in Henan Province. My first teachers were Chen Xiaowang, 19th generation of the Chen family, and Wang Xian. In Japan this might be the equivalent of learning from Yagyu Jube from Yagyu Village. Both of these teachers were remarkable and it was a great privilege to be able to learn from them.
Later there was a blank period when both teachers were travelling abroad to places like Australia so I went to see a taijiquan master in Beijing who I had previously heard about. He was Feng Zhiqiang, of the 18th generation, and he was in fact a teacher of both Chen Xiaowang and Wang Xian. He had developed taijiquan through seven phases of evolution. His evolved form of taijiquan seemed to me to have a deeply Zen-like quality. It exhibited a development from technique to principle or from surface strength to inner strength. I felt that I must learn his taijiquan so I made trips to visit him over a 10-year period or so.
Hirai: So what is taijiquan exactly? How do you move your body and what is being performed? I’m sure it’s not easy to describe it in words.
Yamaguchi: We can look at the meaning of “taiji” in taijiquan. There is a negative pole and a positive pole, just like a battery. The negative we call yin and the positive we call yang. If we use the mathematical formula ‘–5 + 5 = 0,’ taiji is the point at which we arrive at zero.
Hirai: So it’s –5 and +5?
Yamaguchi: It could be 5 or 100 or 1,000. When we practice taijiquan we start with an unbalanced state of ‘–1 and +9.’ Then we move to ‘–2 and +8,’ ‘–3 and +7,’ ‘–4 and +6’ and finally ‘–5 and +5.’ That would be the completion, the ultimate. This refers to the balance of force. When the right hand goes up, the left hand goes down. When the right hand moves to the right, the left hand moves to the left. When the two opposing and mutually attracting forces balance out to ‘–5 and +5’ the practitioner’s movement has reached completion.
What normally happens is that when we hear ‘right’ all our attention goes to the right side and we’re unaware of the left. We start from an unbalanced state like this. In the unity at zero the yin and the yang disappear. And yet it’s the yin and yang that create that unity of zero. In Buddhism it is said that ‘form is emptiness and emptiness is form.’ Form is the material phenomenon of ‘–5’ and ‘+5.’ Emptiness is the unity of ‘= 0.’ So this system of dynamics is consistent with the Buddhist teaching of ‘form is emptiness and emptiness is form.’ In practicing taijiquan one must train through the five stages I mentioned.
The fundamental force for taijiquan comes from gravity. The force that pulls down generates the upward rising force. In the case of jumping, everything is allowed to drop right before the body leaps up.
Hirai: Universal gravitation is a force that is operating on human bodies all the time.
Yamaguchi: Exactly.
Hirai: So the muscles are used as well while using the force of gravity?
Yamaguchi: The idea is to eliminate most muscular force. It’s not that muscles aren’t used. The act of standing requires leg muscles. But we don’t rely on muscular force.
Hirai: So the body is moved using gravitational force?
Yamaguchi: Yes. There are these terms ‘primordial qi’ and ‘acquired qi.’ With acquired qi, one moves by way of muscular strength amassed after one is born. With primordial qi, one moves using only gravity. Primordial qi is qi that exists before birth. A practitioner would be around the third level when they start being able to use primordial qi. It isn’t possible yet in the first and second levels. In the first level one must learn the form. Each of the postures in taijiquan have names. And so in the beginning we learn routines called 83-form or 74-form containing postures such as ‘Buddha’s Warrior Attendant Pounds Mortar,’ ‘Lazily Tying Coat,’ ‘Single Whip’ and ‘White Crane Spreads Wings.’
Hirai: Many shapes with names.
Yamaguchi: Names of shapes. So it’s possible to pause in the postures. The practitioner becomes proficient in the forms to a degree and starts to emphasize the flow. This is the process of transitioning from shape to qi. What it required in this transition is movement using gravity.
Hirai: So instead of moving forcefully with your muscles you move in accordance with nature.
Yamaguchi: Yes. One parallel between zazen and taijiquan is the three elements specified in training the human organism: body, breath and mind. The body is adjusted, the breath is adjusted and the mind is adjusted. But there is one important point. Ultimately these three must become one through diligent practice and proficiency. When the three become one there is no longer name or form. That is to say, all that remains is flow – a flow with deep breaths in which body and mind are aligned.
The mind decides what to do. It directs the flow to the upper right, lower left, front, back, in all directions as it wills. This is the movement of taijiquan. When one enters the third of the five stages it becomes possible to proceed from form to formlessness. From formlessness one then proceeds to xinji, which can be translated as ‘vital secret of the mind.’ It reminds me of the words of Einstein. He said that there is a deeply hidden secret behind the world of objects and that truth is beautiful in its simplicity. The vital secret of the mind is in this same place. When one enters the body and then goes into the realm of the mind, the vital secret is experienced as unity of mind. In Zen this is called non-differentiated knowledge. It’s knowledge that’s beyond conceptualization.
Hirai: So it’s possible to enter such places in the mind by investigating bodily movements in taijiquan?
Yamaguchi: That’s right. It leads to the mind. Thich Nhat Hanh described this same process very simply. He said in practicing concentration you start with observation but then you gradually move to participation. He taught mindfulness.
Hirai: The word mindfulness is used frequently. Buddha spoke of it also and it started from there…
Yamaguchi: Yes. So there is observation and participation. The Zen master Dogen also spoke of this. In Zen we practice concentration. In the practice of concentration, ‘observation’ corresponds to practicing with total determination while ‘participation’ corresponds to practicing with such determination that the practice is forgotten. There is no longer awareness of determination. Once at this place of forgetting one can experience inspiration. This is called living in the secret of mind. There’s no longer any differentiation, just knowing.
Hirai: What they are saying in Zen…
Yamaguchi: It’s the same as ‘seeing in the secret of mind’ in taijiquan. I came to understand this point through my last teacher, Feng Zhiqiang, who taught the unification of heaven, earth and man. The three are brought together as one. Once I understood this I also understood that it’s the same in zazen. This is really the first realization. When heaven and earth are truly connected, you enter a place where there can’t be anymore differentiation. Differentiation is where up is not down and down is not up. However when up and down are connected by one single pillar the two can no longer be separated. It’s a posture where separation is not possible.
As for the mind, it enters the place of knowing without differentiation. I found that it’s the same with zazen after going back and researching once more. The mechanics can be described as the sinking of qi down to the dantian or abdomen. There is the sense of the belly becoming full as one breaths out and the back of the neck naturally becomes erect.
Hirai: You’ve been speaking about what you’ve felt in your body, not about reasoning or concepts, not matters of discussion. If I may ask again, how does the body move in taijiquan and what are the results?
Yamaguchi: In taijiquan there is the principle of entering the state of taiji at the end of each movement. For example if there are 74 forms you would enter that state 74 times. What happens is that you breathe out. Then you relax the qi down to the dandian at the center of the body. Relaxing the qi downwards means you let your shoulders, elbows and chest fall with the gravitational pull. Then the neck will stand up straight. The technical terms for this are xu ling ding jin (straighten neck and suspend head) and qi chen dan tian (sink qi to dantian).
Hirai: These moments arise during the performance of the taijiquan movements?
Yamaguchi: Yes, they do. I used to think that taijiquan was a means and that the goal was satori, enlightenment. But that wasn’t the case. The state emerges in the midst of practice. This is what Dogen taught as the ‘oneness of practice and attainment.’  It’s during the discipline of practice that enlightenment arises. So taijiquan is not a means. Nor is zazen.
Hirai: It arises in the movements.
Yamaguchi: It’s a field that emerges, you could say. The ‘union of heaven, earth and man’ refers to this state of being.
Hirai: It arises during taijiquan…
Yamaguchi: A force that pulls upwards as well.
Hirai: Does the same thing happen while you are practicing zazen?
Yamaguchi: It’s the same mechanics. I was able to learn it through taijiquan.
Hirai: Since you were young you were seeking the world where everything would be alright whichever way things fell.
Yamaguchi: And this was the answer. What it means is that it’s okay to be at heaven, okay to be at earth, okay to be in front or to the back, to the right or to the left. Everything connected for me. The true answer is that there is no falling. The world where everything will be alright is the world in which there is no falling to begin with because everything has become connected. This is world then transforms into ecstatic joy with the power of knowing. The person who knows that everything will be okay no matter what can smile genuinely. The heart experiences joy, peace, freedom and peace that all people are seeking. It doesn’t matter what happens in the outside world.
Hirai: It’s an experience that’s far from reach for somebody like me who hasn’t trained seriously. And yet I feel as if I’ve had a glimpse of the truth.
Yamaguchi: That’s what I was looking for when I first became a monk. It’s something that’s inside of you, first of all. Then, when heaven and earth are connected, the separation between the self and everything else starts to disappear. You become deeply moved by the fact of existence. This is why I feel that it is my mission to pass on taijiquan as a ‘moving Zen’ to future generations.
 
 

どっちに転んでも大丈夫な世界―禅と太極拳その根底にあるもの

どっちに転んでも大丈夫な世界禅と太極拳その根底にあるもの
僧侶・太極拳指導者 山 口(やまぐち)  博 永(はくえい)
き き て     平 位  敦
ナレーター:  今日は、「どっちに転んでも大丈夫な世界―禅と太極拳 その根底にあるもの」と題して、千葉県館山市(たてやまし)の能忍寺(のうにんじ)住職で太極道交会(たいきよくどうこうかい)道長の山口博永さんにお話しいただきます。山口さんは、昭和二十二年、大阪市の生まれ。十九歳の時、奈良県の曹洞宗慶田寺(けいでんじ)で出家し、その後鎌倉の円覚寺(えんかくじ)や福井県の仏国寺(ぶつこくじ)などで、臨済禅と曹洞禅の修行を積みました。太極拳を学び始めたのは、昭和四十八年、二十六歳の時です。その後中国に渡り、昭和五十七年から三十年以上、全ての太極拳の源流とされる陳氏太極拳(ちんしたいきよくけん)の第一人者から指導を受けました。山口さんは、太極拳の鍛錬の末、禅と共通する境地に触れたと言います。今日は禅と太極拳、二つの道を探求してたどり着いた境地についてお聞きします。聞き手は平位敦ディレクターです。
平位:  今回の番組のタイトルは「どっちに転んでも大丈夫な世界」という言葉を使わせて頂いたんですけど、これは山口さんが幼い頃からずっと大切にしてこられた言葉だったとお聞きしています。この言葉には、どんな意味が込められているんですか?
山口:  私が小さい時というのは、生まれたのはもう終戦ですから、その終戦の後に日本の国というのは大変な時代でありました。傷痍軍人と言われるような人たち、あるいは路上生活をしておられるような人たち、また進駐軍が来て日本人のことに対して非常に横着な態度をとったりですね、そういうところを目の当たりにしました。そしてとにかく食べるものがないという、これが一番困難な時代でしたから、私が小学校の時もそうでしたが、やはり家に帰って先ず御櫃(おひつ)を見るんです。そしてご飯が果たしてその中にあるか、どうか。ご飯があればその日一日遊びにも元気が出ますし、もしなければその日の夜果たして何を食べるのかなというふうな、そういう不安の中に育ちましたね。その終戦後のどさくさの中に私は一つ感じたのは、「どちらに転んでも大丈夫な世界はないのか」という。条件付きにこの世の中は動いている。例えばお金があれば大丈夫、なければ困るということで、条件付きではなくて、無条件というところから、有ってもよし、、無くてもよし、と。「無条件にしても大丈夫という世界がないのか」というふうなそういう問いかけがだんだんと成長するにしたがって芽生えてきたんです。それは何かわからないんですが、それはどういった世界なのか、それを私は知りたい。この思いが非常に強くなりました。それがだんだんとさらに成長していって、十三、四、五あたりに、何か知らないけども、人間の能力、この能力をもっともっとはるかに超えた精神世界があるんじゃないか。そういったものを直感的に思って、ある時夜中に起きてですね、キリスト教の通信講座を受けたりもしました。その神を私は知りたいということで、半年間はクリスチャンだったです。小さい時の思い、そこに解決されることはなかったんですが、その思いがやはり年頃になって、物心がついてきたときに纏まって方向性を定めていただいた、そういう気がします。
平位:  そしてですね、出家されるわけなんですが、これは?
山口:  ある時、書店で『禅入門』という本を見たときに、なぜかそれまで問題意識を持っていたその問題の解答が全部そこに書いてある気がしたんです。禅の中に私の本当の生き方があるんだ、というふうに、十六歳ぐらいの時に感じました。
平位:  それがその「どっちに転んでも大丈夫な世界」にも、
山口:  通じるわけですね。結局自分の中にあるんだという。だから他に振り回されるとか、他には無い、自分の中にある。これがブッダ釈尊の「天上天下唯我独尊(てんじようてんげゆいがどくそん)」という、この言葉にめぐり合いた時に、何か私もう人生が決まったようなそういう気持ちになりました。
平位:  そのような目的を持って、奈良の禅寺に。
山口:  はい。
平位:  実際にどうでしたか? 修行してみると。
山口:  いやぁ、最初はですね、まさかと思ったんですが、坐禅よりも作務(さむ)という作業の時間が多くて、朝から晩までもう作業に追いまくられていたというふうな、私の師匠(丸山英智老師)は非常に厳しい方で、私が庭を掃いて綺麗に掃き終わったら、その師匠が飛んできて、何をされるかと思ったら、その木を揺するんですね。そうしたらまた落ち葉がパラパラ落ちるわけです。そしてその師匠がいうことには、「お前は下が見えても上が見えんのか!」。そういう捨て台詞を残して行ってしまわれるというようなことですね。また拭き掃除もそうです。拭き残しというところ、それを指摘されて、「拭くのはこういうふうに拭け」と言ってですね、まぁ確かに理に適っていました。「箒の先も平らに減るように掃け! 弓なりになるような掃き方をしてはいかん!」とかですね、とにかく日常の作務という作業の中で決定的なしごきですかね、ありましたでしたね。
平位:  その作業というのは、意味があったんですか?
山口:  ええ。ありました。その時の師匠の言葉で「無功徳常精進(むくどくじようしようじん)」とおっしゃって、功徳なきところを常に精進せよ、という。結果を求めるな。失敗と成功に煩うな。とにかく「成り切れ」ということだったですね。それで私がお寺に入って一週間ぐらいした時に、私、師匠様に質問したことがあります。「世界平和とは何ですか?」って。そうしたら師匠さんは、「先ずはお経を覚えろ」とおっしゃるんですね。その時に「世界平和はどのようにして実現したらいいんですか?」と聞いたとき、「部屋に入れ!」とおっしゃるから、入った。そうしたら「非力の菩薩、人を救わんとして溺る」とおっしゃった。「だからお前、力をつけろ」とおっしゃるんですね。力つけるということは、本当にその場その場、今ここになりきってなりきっていくと、この訓練においてそれは可能だからと。だから全身全霊打ち込むというふうな教育であったんだと思います。
平位:  そこでしばらく修行された?
山口:  はい。三年修行しましたね。その間にもう一人の私の後の坐禅の師匠になる太田洞水(おおたとうすい)という方が、旅の僧としてお寺に来られたことがあるんです。その太田洞水老師が本当に山に三十年坐禅だけをして籠もっておられたという僧侶で、私非常に憧れました。そしていろいろお話を聞く中に、その老師が最後におっしゃった言葉は、「法を聴くあなたの目は輝いている! 道心(どうしん)あるものよ、本物の僧になるんだったら、野に下れ!」とおっしゃったんですね。
平位:  山口さんにおっしゃった?
山口:  ええ、私に。
平位:  山口さんの目は輝いていると。
山口:  そうです。法を聴くあなたの目は輝いている。「道心」というのは、本当の道の志ある人、というふうに私を見ていただいて、そして本当の僧になるんだったら野に下れ、とおっしゃったんです。野に下れとは、その当時、私はお寺に入っておりましたけども、お寺ではなくて、やはり自分自身を鍛えなさい、という言葉として、その言葉を受け取りました。そういうこともあって、私その奈良のお寺を出て、また坐禅の道に一筋に向かったんですね。
平位:  そういうふうに禅の道に打ち込んでおられた山口さん、その禅の道を進むのかと思われたら、二十代半ばぐらいでしょうか、太極拳を始められたじゃないですか。
山口:  はい。
平位:  これはどういったことなんでしょう?
山口:  まず最初、八歳の時に、桜井劇場という映画館で中国のニュース映画を見たんですね。その中に太極拳が出てきたんです。一人の老人が、部屋から出てきて田んぼのあぜ道をとぼとぼ歩きながら、そしてある広場に来た時に、なぜかスッと背筋が伸びてですね、そしてゆっくり動き出した時に、ものすごい衝撃を受けたんです。とにかく感動的だったんですね。で自分も一緒にやりたいというふうなそういう気持ちを持ちました。
平位:  その時は太極拳は知らないわけですね。
山口:  太極拳という名前も知りません。ただ何かしらそこに力強い、私が後に坐禅に憧れると同じで、人が取れる絶対大丈夫な姿、その威厳というんでしょうか、尊厳というんでしょうか、そういったものを垣間見た気がします。
平位:  それが八歳の山口さんの心に響いたんですね。
山口:  はい。それで私自身が太極拳に次に出会えるのは、それからもう二十年近く後になるんです。その当時、仏国寺(ぶつこくじ)(福井県小浜市)という私の師である原田湛玄老師のお寺に、カナダから坐禅修行したいと言って、参禅者がおられてですね、そのカナダ人が、実はカナダで太極拳をかなり深く極めた人なんです。そしてどうしてもやっぱり太極拳をしたくなってですね、そのカナダ人について二年ほどやりました。それはもうやりたいという思いで精一杯でしたから、それは嬉しい毎日でしたね。
平位:  その頃太極拳って、どういうふうなものだと、こうやってみて。
山口:  そうですね。坐禅とそんなに違和感なかったですね。ゆっくりとした動作というのは深呼吸―坐禅も同じで、深呼吸でその集中力。今ここに徹底的に全身全霊を打ち込むという集中力においても、全く同じでしたから、違和感全然感じませんでした。ただそれを極めたい、もっと極めたいという欲はさらに起きました。
平位:  二十八歳の時ですか、太極拳を本格的に学ぶために台湾に行かれたんですね。
山口:  そうです。本当は中国に行きたかったんですが、まだ開放されてない時期だったですから行けなかったんです。それで最初に台湾に行ったんですね。足掛け五年位、往ったり来たりですが。そしてこうしているときに、中国大陸が開放路線に入った、ということを聞いたもんですから、よ~し、じゃ大陸へ行こう。三十二、三だったでしょうか。毎年三十年行くことになりました。そして大陸で太極拳をやるんだったら、その発祥の地でやりたいと思って、それで河南省(かなんしよう)の鄭州(ていしゆう)というところから車で三時間ぐらいだったですが、陳家溝(ちんかこう)という村、そこに太極拳が脈々と伝わっていたんですね。最初に教えていただいた方は、陳氏(ちんし)太極拳の第十九世―まぁ日本で言えば柳生の里の柳生十兵衛みたいな人―その人について私習えたんです。それが陳小旺(ちんしようおう)という方と王西安(おうせいあん)、この二人が飛びぬけておられましたね。その後にどの先生方もオーストラリアに行かれたりしたもんで、ちょっと空白があって、あと北京にもう一人すごい先生がいるというのは前から知っておりましたから、その先生のところに行って学びたいなと思って、その方が第十八世馮志強(ひょうしきょう)という先生で、なぜ素晴らしいかというと、陳小旺、王西安という方の師匠なんです。この方は太極拳をさらに七回進化させた。その進化させたというのは、まあ私が感じたのは太極拳拳術―術から道という感じ、あるいは表面的な力というものから内面の力ということで非常に深い禅的な要素、それを感じ取りました。でやはりこれこそ最後やるべき太極拳だというんで、また十年ほどかけて通いました。
平位:  でその太極拳ですね、どういうものなのかと。体をどのように使って、どういうことをしているのか。言葉では難しい話なんですけど。
山口:  太極拳という「太極」という意味、例えば、電池もそうですが、「陰極、陽極」、すなわち「マイナス極、プラス極」があります。「マイナス」を「陰」と申します。「プラス」を「陽」というふうに申します。「太極」とはいかなるものかと申しますと、数式で表すならば、「-5+5=0」というふうな、その「0(ゼロ)」というところを、これを「太極」と名付けます。
平位:  「-5」と「+5」の「5」なんですね。
山口:  「五」でも、「百」でも「千」でもいいんですが、例えとして。我々、太極拳の練習する時、「マイナス1プラス9(一陰九陽)」のアンバランスから始めて、で「マイナス2プラス8」、「マイナス3プラス7」、「マイナス4プラス6」、最後「マイナス5プラス5」となって、そして完成というか、究極はその「マイナス5プラス5」なんですね。これが力のバランスを言っているんですね。ですから右手を上に上げる時に、左手は下に下がるんです。右手が右へ行く時、左手は左に行き、こういうふうに正反対の引き合う力、これが「マイナス5プラス5」になったとき、その人の動きは完成された、ということになります。私たちは、もう最初は右だと言ったら、右の方ばっかり意識いって、左はないんです。そういうアンバランスな状態から始めます。でこの「0」という統一のところにおいては、陰と陽はなくなります。でありながら、陰と陽が実はその「0」という統一が現れます。仏教でも、「色即是空(しきそくぜくう) 空即是色(くうそくぜしき)」と言っているのは、まさに「マイナス5プラス5」これを物質的現象で「色」と。で「=(イコール)」これを(すなわち)統一の「0」、これを「空」というわけで、まさにこれは仏教の「色即是空 空即是色」この理にかなう力学です。それでこの太極を練習するために、今申し上げた五段階を練習して行くんです。その根本の動力―太極拳の動力は一体何かというと、この重力にあります。落ちるという力。落ちる力において、昇る力がそこに生まれます。跳躍は全部一回下にズンと落とすことにおいて、上に体が浮き上がる。
平位:  重力というのは、万有引力、重力は必ず人間の体に働いている。
山口:  働いているわけです。
平位:  その力を使いながら人間の筋肉の動きも使って、
山口:  まぁ筋肉は、ほとんど排除という考えですね。まあ立つということ自体が足の筋力ありますから、全く筋力なくして、というんではないんですが、筋力に頼らないという。
平位:  重力の力を生かして体を動かすということなんですか? 動かし方。
山口:  そうです。動かし方。それで「先天の気」「後天の気」という言葉があって、「後天の気」は、これは生まれた後に身に付いた筋力において動く。これを「後天の気」といいます。それに対して重力だけで動く。これを「先天の気を使う」といいます。先天の気は、生まれる前からある気ですから。この「先天の気」が使える段階になっていくときは、第三段階あたりからそうなります。一段階、二段階は無理ですね。一段階において、まず覚えなければいけないのは形です。形には名前がついています。ですから、我々最初に習う太極拳は「八十三式」とか、「七十四式」とか、形がありますね。その中に「金剛搗碓(こんごうとうたい)、あるいは「懶扎衣(らんさつい)」「単鞭(たんべん)」「白鶴亮翅(はっかくりょうし)」というふうに名前がついています。
平位:  いろんな型の名前がある。
山口:  型の名前ですね。ですからこれポーズで止めることもできます。で形ある段階を熟練していって、だんだんと流れにもっていきます。これが「型」から「気」に変えていく動きですね。その「気」に変えるとは、重力を用いて動けるかどうか、が要求されてきます。
平位:  その筋肉で無理矢理動かすんじゃなくて、自然に従って動く。
山口:  そうですね。坐禅も太極拳も同じなところは、人体が鍛錬をするとき、三つの要素を挙げます。一つは「体」、もう一つは「呼吸」、そして「心」。この体を調え、呼吸を調え、そして心を調えると。この三つの要素も挙げますね。これには厳格なやはり注意点があります。最終的には、この三つを一つにする。これが熟練ですね。三つが一つになるという時に、名前と形はなくなります。というのは、流れだけですから。深い深呼吸のもとに、身体と心が一致した流れ。で心は何をするかを決めます。右上、左下、前、後、それも縦横無尽に、十方に流していくわけです。これは太極拳の動作。最初に言いました、形あるところから形ないところで、有形から無形に至るといいます。これにおいて、さっきの五段階の三段階目になってくると、それが可能になってきます。無形から今度「心機に入る」という段階に入ります。「心機」というのは、心の「機械」の「機」と書いて、「機」の意味は、「機密(きみつ)」というふうなところから重要な「秘密」というふうな意味合いがあります。この重要な「秘密」ということから、私はアインシュタインの言葉を思い出しました。「ものの背後には深く隠された秘密がある。真実は単純にして美しい」とおっしゃった。確かに心の重要な秘密というのはそこにあるんですね。体から入って、そして心の世界にこう入っていったとき、その重要な秘密というのは「統一心」これを禅では「無分別智(むふんべっち)」と言います。分別を超越したところ。
平位:  太極拳でもそういうところに入るんですね。体の動きを探求したりすると、心に至る。
山口:  そうです。心に至るんです。これをわかりやすく言ったのは、ティク・ナット・ハン(Thich Nhat Hanh :ベトナム出身の禅僧・平和・人権運動家・学者・詩人:1926-)あの方が、集中において参加―最初は観察、観察をしながら次に参加していくということで、マインドフルネスということを唱えられた。
平位:  よく「気づき」という言葉を使いますね。ブッダもおっしゃっているんですね。それから始まって。
山口:  そうです。参加していくという。道元禅師はここのところ「参究」とおっしゃったんです。ですから禅においても集中しなさいと。集中する。「なりきる」というのは、最初の観察的段階。それを「なりきってなりきっていったら、その先に忘れる」ということが参加。全身全霊打ち込んで、なりきることも忘れてしまう。その先に忘れるというところまでなりきった時に、ひらめき(「気づき」)が出てくる。これが心機に入るという。無分別にして智(し)る。分別はもうなくなって、そして智るという。
平位:  その禅でおっしゃられていることと、
山口:  太極拳の「心機に入る」というところが同じです。ここですね。私は、太極拳をどういうふうにして分かったかというと、最後に就いた老師、この方がおっしゃっている言葉で「天地人合一」三つを一つにする。この「天地人合一」これがわかったときに、私は坐禅もそうだった!ということがわかったんです。これは本当に大きな気づきなんですが、「天地」というのは、本当に、身体的力学で一つに繋がったら、心は分別できない世界に入ります。「上は下では無い。下は上では無い」というのが分別。ところが、上と下が一本の柱でつながってしまうと、分けられないんですね。分けられない姿勢。力学のもとに自分の心はどうなるかというと、無分別にして智るという世界に入ります。坐禅そのもの―私、もういちど調べ直したら、坐禅も同じなんです。これが本当力学的にいうならば、「気沈丹田(きちんたんでん)」と言って、下っ腹に息を吐くと共に、下っ腹が充実してくると、自然に首筋が上に立つんです。
平位:  今おっしゃられているのは、理屈とか観念の話ではなくて、理論の話ではなく、体で感じた。同じことを改めてお聞きしたいんですけど、太極拳の場合は、どういう体の動きで、どういうことが現れるわけですか?
山口:  太極拳はですね、「各動作の後は渾然と、〝太極の気象〟に帰り、いささかの痕跡をも残さず、外観さながらに停止しているかの如くであるが、内面は絶えず太極が運行している」という拳理があります。例えば七十四の形があったら、七十四回その状態に入るんです。この時に何をするかというと、息を吐くんです。そして人体の中心である丹田に、その気をズーッと下ろしてくる。気を下ろすということは、両肩、両肘、胸の力も全部重力に任せて沈めるんです。そうしたら首の筋がスーッと立つんですね。これを専門用語で「気沈丹田(きちんたんでん)・虚領頂勁(きよれいちようけい)」と申します。沈む気(気沈丹田)が上昇の気(虚領頂勁)と連動して天地を貫きます。
平位:  太極拳の動作の中で、そういう瞬間が現れるわけですか?
山口:  あるわけです。だから太極拳、私、手段で、目的は別に悟りというものがあると思ったら、そうじゃなかった。練習の最中にその状態が顕れる。としたら、道元禅師がおっしゃった「修証一如(しゆしよういちによ)」という。「修」という修めているときに、悟りがそのまま現れる。そうしたら別に手段ではなかったんです。太極拳も坐禅もそうです。 (因果一如)
平位:  その動きの中で現れる。
山口:  現れる境地といいますかね、その精神状態、それが「天地人合一」という。
平位:  太極拳の時、現れる。
山口:  気沈丹田、虚領頂勁(きょれいちょうけい)。
平位:  それと坐禅で坐っているときも(天地同根)同じ状態なんですか?
山口:  同じ力学であった。これを私は太極拳の方から教えられました。
平位:  幼い頃からですね、「どっちに転んでも大丈夫な世界」というものを追い求めて、それがまさに…
山口:  そのことなんですね。「どっちに転んでも」というのは、天にあってよし、地にあってよし、前にあってよし、後にあってよし、右にあってもいい、左にあってもいい。全部繋がったんです。「転びようがない」というのが本当の答え。どっちに転んでも大丈夫な世界は、転びようがなかった、という。一本につながってしまうと。それでそこにですね、智るという力で、これが法悦という歓喜に移り変わるんです(万物一体)。絶対大丈夫ということで、にっこり笑える世界。人間が本来求めている歓び、安心、自由と平和。それが生まれますから、内面に、心の中に。これは外の世界とは一切影響ないです。
平位:  私のようなろくに修行したことない人間には、到底実感はできないんですけども、なにかそういった真実の一端に触れたような、
山口:  本当に私もそれは出家した時、それを願って出家したんです。まぁそれがまず自分の中にあるぞ、という。それが天地繋がったら、一切と自分との区別がなくなってきます(天地同根、万物一体)。存在ということに、ものすごい感動を覚えます。私は、太極拳はそういう意味で、「動く禅」として本当にこれを世に残していかなければならない使命を感じています。
これは、平成三十年五月二十日に、NHKラジオ第二の
「宗教の時間」に放送されたものである

太極接心 山口道長の法話 音声

5月3日から5日にかけて、天城一燈禅林で太極接心が行われました。
5日の早朝、坐禅中の山口道長の法話を掲載いたします。
山口道長からのメッセージ
「私のことについての記述である精気神22号21ページ
王西安先生の
「太極拳の柔らかな自然さは、一定以上のレヴェルに達すれば、そのまま僧侶の禅となるそうである。人が寺で修行して追求するのは心の安寧であり、静を以て浄を求め、自ら完全なものとすることである。太極拳が求めるのは人生の悟りの境地であり、動の中に安らぎと遠々と続く成果(致遠)である。修練において、太極拳の多くは型は坐禅と近くなる。坐禅では虚領頂勁、上隠下陽が求められ、太極拳では気沈丹田、上虚下実が求められるため、禅を修めることと太極拳を練ることで、いずれも身を修め人格を磨くことができるのである。」
との言葉を読み、今回の太極接心三日目早朝の坐禅中の法話として、
禅、太極拳、ヴェーダーンタからさらに細かく説明を加えました。

 
 

道交会公案

kouan
kouan2

この二つの公案は同じ内容です。
公案とは
真理(太極)探究の為の問いかけです。
まず『乾坤(けんこん)』とは天地の意で宇宙全部です。
『大地』とは森羅万象で大生命体です。
これを知るために『 一指頭(指一本を立てた勢いで…太極です)』がわかれば
一元平等世界…
山岡鉄舟の言う
「晴れてよし 曇りてもよし 富士の山
元の姿は変わらざりけり」の
“元の姿”
がわかります。
そして『雨風』は
鉄舟の言う
“ 晴れてよし曇りてもよし”の意で…  …
人生の苦楽に惑わされない。
心境を言ってます。
又、たとえその意を理解していなくとも、この問いかけは私達人生の指針となります。
道交会員は“精気神”の“神(人人各居一太極)”を理解するためにも積極的に、この公案に参加(参究)してください。

山口博永 拜上

太極拳における発心

山口道長が、太極拳においても発心が大事だというお話を、弟子との会話の中でお話されました。
さらに、あらためて、道交会員にメッセージを送られましたので、お聞きになってください。
 
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1. 他の会話から、太極拳における発心へと移っていきました。
5分30秒あたりから太極拳における発心の話になります。
信発心、解行発心、証発心など。

2. 太極道交会員に対するメッセージ
太極拳における発心について

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道交会指導員 伊藤千珠さんの感想を以下に掲載いたします。
皆様の感想もお待ちしております。
tenjou-daigoku@polka.ocn.ne.jp
にお送りください。
 
伊藤千珠
発心の音声を聞きました。
解行発心の大切さ、法灯明、理論に照らす事の大切さを改めて感じました。

最近、太極拳とはと自問するときに丹田の感覚が浮かんできます。
極論かもしれませんが、太極拳は手足が無くてもできるという事なのかもしれません。もっと深めたいと思います。

先日、中国人の S さんの太極拳を見て、確かに若く体を維持していてそれは凄い事と思いました。
ただ、本人はある意味、強迫観念があるのではと思いました。
人は病気にもなる、体力もなくなり、物質的なものは失っていく。その時に何が残るのか。
解行発心の大切さ、そこを確立していかないと虚しい。

そういう意味で挫折を繰り返しながら受けいれつつ、霊性の向上を目指したいと。
今回、先生が病気になられ、また更に境涯を深められたと思っています。
私たちも動揺しながらも立ち返る機会を頂きました。

道交会にご縁を頂いている事に感謝します。

道長のお話 

道長の法話、弟子との日常の会話を菩提道交会のホームページに掲載いたしました。
法話、遊戯の部分をご覧になってください。
心の悩みを持っている人がそばに来たとき、小浜の老師の言っていた来たれば迎え、住すれば和し、去らば送るについて、外部のものはすべて暗示を投げかけるだけであって、すべては自分の問題であるということについて
こちらから

嫌いなものについて具体的にどう考えるべきか、道を学ぶ者は人間の価値観でのみ考えるのではなく、存在世界にまで広げて考えなければいけないということを人に害をもたらすとされる細菌を例にとり弟子との日常会話の形式でお話していただきました。
こちらから
 
 

道長から初心者へのメッセージ、太極についてなど 道長の音声

4月26日の4月接心の中での道長の法話の音声をアップしました。
今年の5月の天城合宿に参加される方たちは、できるだけこの音声を聞いて質問していただきたいと道長がおっしゃっておりました。
1.道交会の合宿などで以前使った「随流去」についての説明、
坐禅、カルマ、種子にはじまり種子に終わる、中間出息、ファンソン等
その1

その2

2,初心者が太極拳に取り組むに際に大切なこと、

 
3,初心者への激励の言葉、

4,太極の気象について、
(太極の気象に入るとからだにはどのような変化があるのですか、弟子が太極をわかっているかどうかは、どのようなことからわかるのですかとの質問への解答など)

 
5,太極拳に求めたものについて、

 

太极拳之「大周天・小周天」的真意

山口博永

 
我们日常生活中所看到的太极拳是发源于中国的进行身心锻炼的气功法。
在战乱年代,处于保护自己的家族的需要,这种气功所具有的身体力学技术(拧转力、缠丝劲)又被用于攻防。然而,尽管气功具有武术特性,但在其力学和修炼的目的上是没有什么不同的。拳理(太极拳的理论)说:「所谓太极拳就是一种基于阴阳合德、天地自然之法则的炼气术」。因此,在现代社会太极拳作为一种健身功法,不仅风格独特,而且还具有很高的艺术性,深受世人喜爱,并逐渐风靡世界。
太极拳的目的
我们知道,太极拳不仅是进行身心锻炼的健身功,同时又具有护身功能和艺术性,其力学原理非常深奥。练习太极拳的本来目的其实就是一条体会探寻真理之路。
拳理说:「所谓太极,就是先人们以无名为名,故谓太极。始祖陈卜在读书之余暇,向子孙教授阴阳开合运转之术,以作为消化饮食之理法,因其是基于太极之学问,故称之为太极」。
何谓太极拳
身体是一种物质,物质就是能量,能量就是阴阳二力作用的结果。阴阳是产生万物的力,表示热和冷等相反的性质,可以通过我们的五官(眼、耳、鼻、舌、身)感知。我们的身体也是阴阳的组合体,由头寒(阴)足热(阳)二气的平衡来维系健康。我们日常生活中所说的分辨事物的是非曲直之心(得失好坏之心)和机器人是相同的,是进行信息情报操作的物质之心,是需要经常调整的。
然而,与此相反,在阴阳(波浪)的背后,存在着一个我们未知的统一的世界(大海)。
这个统一的世界,由于没有可比的对象,无法用五官测量。所以,无从了解物质背后的形态,没有形态,也就无从取名。尽管如此,它还是客观存在的,在拳理上就“以无名为名”。特别赋予“太极”之名。
如果将阴阳比作波浪,背后的太极比作大海,那么,这一非常难懂的拳理也就容易理解了。有名的科学家爱因斯坦在解释看不见的物质背后的世界时这样说到:「在物质的背后存在着深深隐藏的秘密。真实是单纯而又美丽的」。
此外,在东洋哲学的探求真理的问题中也认为「万有缘起归于阴阳二力的作用。世间万物源于何处谁又知之?」。也还是暗示物质的背后一定有什么东西。
是的,太极拳可对这两个问题给予回答。如果作进一步的解释,用数式来表示阴阳和太极的关系的话,则就是:
负  正  等于  零
—   +   =    0  。不难看出,阴阳之波浪的— +和太极之大海的0的素材都是海水,关键在于它们是一种阴阳平衡的关系。因此,为了保持作为物质之身心的平衡,我们有必要了解0的含义。(大死第一)「波浪就是大海」
也就是说如果我们知道了统一的0,那我们的身心就会消失,就可知道背后存在的东西。(无心无我)
相对矛盾的波浪消失了,但绝对统一的0―大海会得以保存。这就是“有”。如果能体会到它的话,我们就可以获知没有迷茫的“自由”。以此为出发点,我们必须重新认识这个太极0。所谓太极它不是—+阴阳分开存在的,其实是阴阳“和合”的。(大活现成)
拳理说:「拳在心中—心中天机跃动,活泼自如,和其他的拳法是完全不同的」。总之,合一、和合以及爱因斯坦所说的「单纯而又美丽」,这种形态才是“本来的自我”。
阴阳和太极— 太极拳的实践(小周天,大周天)
从事量子力学研究的科学家F・卡普拉在「道自然学」一书中把太极拳表现为「量子运动」。的确,太极拳的动力源在于重力,而将自然界中的重力用于体内的重要的身体部位就是股关节。通过使两股关节反复交替地弛缓、紧张,将由重力产生的反冲力(和跳跃力相同)】变为用腰扭转的运动(无限大),从而在身体内产生一种左右流动的螺旋力,这种左右流动的螺旋可以遍及身体的各个角落。与此相适应,两股关节依次进行虚实转换,使流动得以圆滑地上下开合。这种运动称之为《小周天》。经过一个循环之后的“合”到放松,可以使阴阳二力归于身体的中心,贯通天地。对此,拳理上是这样描述的:「各个动作结束之后浑然归于“太极气象”,不留下一点痕迹。外观上看似乎是停止不动,但在身体内部太极却在不间断地运行。这就是太极拳的深奥之处,学习太极拳就是要学习这一精深的义理」。这也就是太极拳修炼的目的所在。
实际上,如果我们能够体会与太极拳动作相匹配的「逆腹式呼吸」,也就可以感受到天地阴阳。下沉之气(气沉丹田)和上升之气(虚领顶劲)连动,贯通天地。这种无限循环的运气被称之为《大周天》。和天地自然合为一体,趣味无穷(时空无限)。这种境界称之为“太极气象”。
我拜为师父的老师曾对我说:「太极拳我是了解了。但对于太极,我还只是站在门口。
要了解太极,我还需要修炼一千年。这里所说的千年修炼,一般会认为有些夸张,但作为已经进入太极气象者的实际体会来说,是理所当然的。
能够了解无穷的人他们能够从人世间繁琐事务中解放出来,不需要富贵和权力,可以获
得自在。(说句题外话,超越时空的人生观对于我们学习佛道的人来说就是指将“永劫”作为单位,立地获得长生不老成为菩萨)
太极的气象和无分别智
为了获得完全的自由,我选择了出家进入禅门。同时,我坚信太极拳也是实现这一理想
之路,又进入了太极拳研修之门。刚开始的时候,太极拳也好,禅也好,作为我的实现理想的对象,他们曾经是对立的。但当知道理想是要在自己的实践中实现后,方才明白禅和太极拳终归只是个名称,日常生活中的一举手,一投足,行住坐卧均是太极拳,均是禅。
如果用语言来描述当时的心境,则可以说禅是一指头消息,太极拳是太极气象,名称不同,但意义相同。对此,就让我通过太极拳修炼的过程来加以说明吧。
太极拳的练习是从身体调整开始,这是有形的阶段,每一个动作都有名称,这些动作都
要反复练习。这样一来就会产生出太极拳的独特的风格。这只是入门。
接下来,各种动作套路都熟练以后,可进入无形的阶段。此时,完全不拘泥于套路和名
称的限制,真气就像河中的流水一样充满全身在体内流动。
再上一个台阶,可以知道股关节的虚实(蓄发),全身像波浪一样翻滚。这时,已经掌
握逆腹式呼吸,马上就可进入太极气象阶段。
关于逆腹式呼吸的方法,本来是由师傅向徒弟口传的,但在这里我想斗胆讲一讲。所谓
的逆腹式呼吸就是横膈膜随着两臂的开合而上下运动的自然开合呼吸。开始时先吐一口气,然后吸气。吸气时向上抬起两臂。此时,由于向上抬起手臂的重量,脊骨下落,脖颈直立,气入丹田。然后,一边慢慢地吸气,一边抬起两臂,于是下腹部就会成为真空状态般地瘪进去,与此相顺应,上腹部慢慢地被吸起而膨胀,随着接下来的吐气,上腹部会慢慢翻滚,气徐徐下沉。气开始下沉时,胸部内侧变虚,肩、肘、两腋随之下沉,与此同时,会从后方产生一股上升之气。胸部打开,与充满上升之气的丹田对拉,即可超越人智进入无分别智的中气境界。
一旦天地合一,呼吸就会停止,(中间出息)。呼吸停止时,天地人合为一体,呼吸被吸
收入其中。这种单一的气势就如同分别心的灯火也会被太阳光所吸收一样,自他的存在也会消除。我们将其称之为“无我两忘之境“。此时,天地人三性合一,太极气象就会出现。当有无没有时其实就是“有”。这就是“无分别智”,是无法用语言表达的。
 
负  正 等于 零
—  +   =   0   这就是宇宙万象的实体,我们作为来自自然界的产物本来也是遵循这个
法则而存在。
天地同根,万物一体,这是多么伟大呀。(太极气象,无分别智)
就让我们把这一言教作为指月的手指来观看手指前方的月亮吧。
 
大法輪 2014年 4月号 掲載
裴建国先生 訳
 
 
 
 
 
 
 
 

動中の太極と静中の太極  音声

質問その1

動中の太極と静中の太極とはどのようなものですか?
太極の気象と逆腹式呼吸の関係、逆腹式呼吸の練習の仕方はどのようなものですか。

 

質問その2

太極の気象・無分別智とはどのようなものですか。
先生はどのようにして太極の気象がわかったのですか。坐禅と関係がありますか。

 

太極拳問答 その1 開中合 合中開は意念を伴う。

弟子が、太極拳について、山口道長に行った質問についての一言を掲載いたします。
 
弟子: 放しょうのとき、次の動作に移る前、腕がとても格好が悪いのはなぜでしょうか?
太極拳問答
 
博永師匠曰く:
開中合、合中開は意念を伴う
意念のない開合は有り得ない
循環動作は意が先で動作は意に従う。
 
意において動作は千変万化と化すーー
もちろん! そのときの意は空性( 物我両忘 )に住す。
《みつつ、見ず》
 

台湾年始会 慧済寺にて 

花と劉大師劉大師の噂は、日本にも伝えられ、伝説的な人物となっていますが、この中で今まで劉雲樵という名前を聞かれた方はおられますか !? 手を挙げてみてください ー 確かに結構おられますね。


遺影私が地方で太極拳を教えるとき、「 あなたは、なぜ太極拳を習いたいのですか 」と聞くと、「 太極拳は拳児という漫画で知ったから… 」という人が以外と多いのにビックリします。
その漫画を私は知りませが、その拳児 という漫画の中に劉大師らしき人物が出てくるそうですね。


OLYMPUS DIGITAL CAMERA私が、はじめて劉大師にお会いしたのは28歳のとき、かれこれ40年になります。インド巡礼の旅から日本に帰る途中でどうしても本場の太極拳を学びたいという一心から台湾に立ち寄りました。
そして太極拳の道場を探しました … このいきさつは私の自叙伝をみていただければわかるのですが、最初はなかなか道場が見つからなくて、ようやくにして見つけたのが楊式太極拳でした。


楊式の練習今朝、皆さんと一緒に太極拳を練習したあの公園のあの場所で楊式太極拳を練習したのです。そう、あの時楊式の先生は私が日本で学んだ太極拳を見て、それではダメだと言われて、本場はさすがだな、上には上があるなと、嬉しかったですね。それから一年が過ぎた頃、北海道から高橋さんという方が太極拳を学びに台湾に来ました。
そして、新公園で日本人の私が太極拳を習っているという噂を聞きつけて会いに来てくれました。
その時、彼が云うには「 武壇というところで陳家太極拳をやっているので今日一緒に見に行かないか 」というのです。
そのころの私は太極拳にも色々種類があるという事も知らなかったのですが…その当時日本に武壇の陳家32式太極拳の本が出版されていたようで、 高橋さんはその本を見て台湾に来たそうです。
高橋さんとしかし、高橋さんは突然私に陳家( ちんけ )太極拳というから、私は、えっ…ちんけな太極拳 ? と軽くあしらって 「 私は楊式をやっているからこれでいい、チンケはいらない 」と言ったら、「 陳家はすごい太極拳だから!」と熱心にすすめるから、では見るだけということで、通訳を交えた三人でその日の夜に武壇に行ったのです。


劉大師とところが、武壇に着いたその日になんと劉大師に会ったのです!衝撃的な出会いでした!
今日、御参りしたあの写真にその当時の面影がありますが、とにかく武人とはこういう方の事をいうのかと一瞬たじろぎました ー
その時の話し合いの中で、劉大師は、陳家太極拳は弟子の徐紀がやっているから徐紀に会いなさいと言われて、次の日に除紀老師に会いに行く事になりました。


徐き先生とところが、徐紀宅に着いて、老師の部屋でその陳家の演武を見てこれまたびっくりしましたね! これがあの陳家な太極拳なのか!と・・・
この陳家太極拳が台湾に伝わった経緯は、陳家溝の近在の県知事の息子さんで、杜という方が戦後蒋介石と一緒に台湾に移り住まわれたからですね…。
劉大師は、その昔北京で、陳発科老師の演武を見て度肝を抜かれたいきさつがあって、あの陳家太極拳が廃れてはいけないということで、高弟の徐老師を杜老師につけて太極拳を学ばせたそうです。
今朝、軒下で演武してくださった先生は、杜老師に15歳のころからついて学んだと言っておられましたね ー ところで劉大師は杜老師の動きでは武術として使えないと言って、徐老師の動きを改変されたのです ー それ故あの時、徐紀老師の演武された太極拳は劉大師の改変太極拳なのです。
劉大師も、ある時、日本で出版された徐紀老師直伝の太極拳を、杜老師直伝陳家太極拳とされていた本をご覧になって、これは私の太極拳である ! とハッキリと言い切っておられました。( 1978年に陳小旺老師の前で私が武壇の太極拳を演武したとき陳老師は陳家溝の老架とほとんど同じであると評価して下さり、あなたはもう老架を学んだのだからといって、新架から教えて下さった経緯があります )。
ところで、徐老師に入門をお願いしたのだから、すぐに太極拳を学べるかと思ったらそうではなかったのです。
徐老師は、私の楊式太極拳の動きを見た後に、なんと! まず基本が大事だから単腿から始めるようにと言われたのです。 そして、更に単腿の出来具合を見て 陳家太極拳を学べる素質があるかどうかを調べて決めるとまで言われました。
taikyoku2_p8taikyoku2_p9軽やかに跳躍練習taikyoku2_p12taikyoku2_p13


こっちも開き直って ー それならば基本功からやろうではないか ー ということで、台湾に五年、通算して3年滞在した中で、なんと8ヶ月も単腿の練習に費やしたのです。
実は、その12路単腿を教えて下さった先生が黄偉哲先生ですが、その黄老師が今晩私たちのホテルの方に来てくださるそうです ー 35年ぶりです、嬉しいですね!
この黄老師は、最近 You tube などで拝見しましたが下半身の衰えがまったくありません、非常に素晴らしい方ですから、今日会えるのを楽しみにしていてください。
劉大師に見守られて練習さて、私が単腿を3ヶ月くらい学んだころに、黄老師が突然! 「 今日劉大師が、あなたの練習を見に来られるから、頑張ってね! 」 と言われた時は少し緊張しましたね ー そしてその夜、劉大師が見ておられる前で、単腿の一路から始めました。緊張の中、動きながらだんだんと劉大師の方に近づいて行くと、突然劉大師は椅子に腰掛けたままで、サッと手足を組み換えて私を見つめられる … 劉大師に打ち込む隙がない!と感じましたね ー 私は更に演武をしながら、そのままずっと道場の外に出ていくのです ー 狭い道場なものですから、単腿をやるとアスファルトの道路のほうに出て行って、2路で又動きながら、そのまま道場に入ってくるわけですね。
行ったり来たりして劉大師に近づくたびに劉大師は構えを変えられる ー こっちから来るとこういうふうに足を組み換えられる・・・
劉大師は本当の武人ですね、その時々で、無意識に体を変えるのですね! 私がすっと立つと、劉大師が風に揺られるようにふっと動く! 最初意味がわからなかったのですが、自然体の間 … あれが本当の武術家の呼吸ではないかと思いました。
劉大師にお酌私達の歓迎会の宴会のときもそうでした、私がビール瓶を持ってお酌に行こうとしたら、山口は何だ ! と言って、こう構えて睨らんでいる写真を皆さん方も見たことあるでしょ ー もしあの時に、ちょっとでも怪しげな動きをしたり、誤解でもされたら大変でしたよ ー 2cmもの高さのある象牙の指輪をいつも中指につけておられましたからね! ー 「 空手は硬いものをこんなことやって鍛えるが、私はそんなことできない、手がダメになってしまう 」と冗談を言いながら空手の鍛練法の間違いを指摘しておられました。
ご自分は、いざというとき、あの指輪で人体のツボを打つのだ ! とおっしゃって ー 本当の拳法とはなァ、という話しをよく学生たちに聞かせて下さいました … 。
又ある時、私に拳には三つの要素があると話して下さいました ー これは皆さん方にも何回もお伝えしたことです ー
劉大師とひとつには心身の鍛錬
二つには芸術性
三つに護身術
このようにあげておられましたが、私が感心したのは、二つ目の芸術性 ー 拳は芸術だということをそれまで聞いたこともなかったので、どうして拳法が芸術なのかと・・・
それは、表演大会などで点数を競い合う程度のものであるかと思いきや、とんでもない間違いで、芸術性の正しい意味は正確な動きは美しいというものです。
もちろん、拳の動作だけではなく、日常の立ち振る舞いまでも美しくなくてはなりません、その美があるかどうかの基準においてその人の練拳が正しいかどうかを見極めるというのです。
この 現量 には感心致しましたね ー 自然(じねん)同体の体 ー これこそが拳なのです。
又、第一としてあげられた心身の鍛錬、 これが練拳修練のもっとも重要な目的であると諭されました。
そうなのです!
若い頃には理解不可能で、格好づけたその場の逃げ口上のようにも聞こえますが、決してそうではなく自らの人生の本当の敵 ! 闘うべき相手は
” 日々に転ずる自身の 陰陽躁鬱 ” そのものなのです!
” 女々しさに陥ることなかれ それは汝にふさわしくない 卑小なる心の弱さを捨てて 立ち上がれ !! ” … …

この 凛と立ち上がる ! 為に、私たちの日々の鍛練があるのです !!
人生の ” 逆境 … 生 老 病 死 ” これこそが本当の敵なのです!
にこやかに練習この劉大師の教えのいきさつは、 今日の夜に来られる黄老師が、私が単腿を劉大師の前で演武したとき、私に向かってちょっと不服そうに言った言葉
” もうちょっと、動きに殺気を出してやれないの!? いつも楽しそうにやっている ”・・・
と言ったその言葉を受けて、劉大師が ” それでいいのだ!山口は和尚であるから、それでいい ” と言って示された教えです。
あの時、私は内心「 直線的なちょこまかした拳はどうにも好きになれず、おおらかに大空を行く雲のような循環の広がりの拳、太極拳が学たいの 〜 ! 」といつも黄老師に言ってるのになんで今さら … と、 ブツブツとふくれっ面をしていたかもしれませんね …
黄先生と食事 ところが今回の訪台でその謎が解けた気がしました ー 今回我々の前で演武された黄老師の太極拳は、形の運びは太極拳であっても、直線的な剛拳であり太極拳の勁道とは異なります。
( それにしても、黄老師 ー 昔の技の切れ味にも増して、その拳風は重厚感に溢れ、一家の体貌を成した趣は、30数年の練功の成果が偲ばれます。 さすがです ー ) …
実はこれはその人の持つ気風、気質の問題で、練拳を始めるに当たって最初どの拳を選ぶかは個人個人大事な選択肢なのです ー あの折り、徐老師は基本の単腿の拳風から、その人の拳の素質を読み取り、次にどの拳を選ぶかを見極める必要があると言ったあの言葉にも納得がつきました!
32式初練習32式 左向いて事実徐老師は非情にも、陳家を学びに来た高橋さんには外家拳をすすめ … 私がまた外家拳の真似事をしただけでも厳しく叱った徐老師の考えも今はよく理解できます 」 ー


あの時、劉大師は心身の鍛錬を第一とせよ!と私に言ったあと
「 お前が寺か道場を持った暁には書を書いてあげる 」と約束をして下さいました。
仏精気神数年後、能忍寺本堂建立に際して、斉藤さんと大橋さんが訪台し、劉大師から、約束の書をいただいて来てくれました。
その書にしたためてあった教えは・・・
精気神 と 仏即是心 ですね…。
「 劉大師は元来仏教徒ではなく、回教徒ですが、仏教寺院に祀られておられたのですね… しかも納骨堂にとは… 子供さんがいなかった為、跡取りがなかったからでしょうか …  少し寂しいですね ー 」
さて ー 今回こういう企画で年始会を台湾でということになり、私がふと気になったのは、精気神の18号にたしか劉大師の教えから書きだしたことを思い出し、その18号を台湾に奉納しようと決めました。その矢先に立教大名誉教授の横山紘一先生から、「 御殿場合宿の時に山口道長が話したのを読みましたが、すごいですねー 」と評価をして下さったのです。
すすき御殿場合宿のときの文とは、もちろん精気神18号です。
家に帰って再度読み返しましたが、我ながら驚きました! 皆さん方も、もう一度帰ったら見てください ー
私は18号を読み返しながら、太極拳とは何か・・・、それがどうして心身の鍛錬になるのか、その過程と結果、その理がここまでまとまっていたのかと我ながら驚き、早速普元さんにメールして、「 この18号を台湾に行くまえに菩提道交会ホームページに出せませんか?」と無理を承知で連絡しました。すると普元さんから了解しましたという返事が来て、それから30分もしない内に見事菩提道交会の太極という項目に入りました。帰ったら見てください ー
精気神taikyoku2_p25
taikyoku2_p26今日、寺に18号を奉納させて頂きそして、あらためて劉大師に誓いました!


私は拳を通して、太極の神髄を伝えられる者となります … と ー 皆さんも、また太極を目標として日々練拳をお願いします …
さて、劉大師に書にいていただいた精気神とは、精をもって気と化す ー 気をもって神と化す ー 実はまだそのつづきがあるのですよ、神はすなわち虚に還る … と、それが、精気神の本意ですね ー 虚に還る ー 禅の言葉に ” 円なること大虚に同じ、欠くることなく余ることなし ” とあります。
大虚
虚というのは、虚実の虚ではありません。 万法帰一、 その一とは太極、万物の本源の事です。
拳はそこに帰ると ー これこそが完全なる勝者、ということになるのです。
OLYMPUS DIGITAL CAMERA今日、お参りしながら、私は劉大師の恩に報いる気持ちを新たにしました。
どうぞ、太極道交会です、太極の道に交わる会
これは、劉大師の願いで目標でもあるわけですから、今日、この場を機縁にして、更にお互い精進を誓おうではありませんか !
以上です …
有難う御座いました。

太極理論 精気神第18号より

                                      山 口 博 永                               

富士山この冊子(道交会手帳)には、太極拳の大事な理論である太極と陰陽が説かれてあります。皆さん方も時々これを読んで参考にしてください ――
 
 
 
 
 
『 拳を学習する目的は、心身の鍛錬をその第一とせよ  』
 
遺影
これは 劉 大師 のお言葉です。
さて今まで何度も申し上げたことですが、少し復習をしておきます。
まず太極拳の目標は、インドの最高哲理であるヴェーダーンタ哲学の探求テーマと同じで「多様性の中に単一性を見いだせ」というものでした ―。
なぜ“ 単一 ”かと申しますと、簡単に言えば多様性は 不自由 で、単一は 自由 ということです。
これを喩えとしてあるのが有名な、波と大海があります ―
『 私達を含めたこの世界は個別の存在としての波と、一体の大海に似ているとした。』
確かに私達はそれぞれ個の波であると共に本来は大海であるというのです。
しかし、このことは頭で理解できても日常にあってはなかなか理解が出来ません。
いつも私達は外の世界を分別して他の波とぶつかり争うのです ―
そこで理法は単一なる大海こそが自己であると気づけば、あなたは一体全体を知って完全なる自由を得るというのです。
勿論この法則は私達の日常とかけ離れた事柄ではなく今まさに、ここに問われているのです ―。
すすき例えばここに居る私たち20数名の存在も、その窓の外に見える「松、もみじ、ひのき」などを入れた自然界も同じく全ては個の存在としての波であり共にかかわりあっているのです。
そこで、太極拳の鍛錬もこの陰陽矛盾を解決すべく ― ― 多様に変化する動作の中に、統一をはかる、すなわち太極を目標とするのです。
矛盾は不自由で心身の病を得る … それに対して統一は自由で健全なのです。
そこを陳ヒンも
 
 
仏
各動作の後は渾然( 完全に溶け合う )
と太極の気象( 気性、気質 )に帰り、いささかの痕跡( 過去にあった、跡形 ) をも残さず 外観さながら 停止しているかの如くであるが、 内面絶えず 太極が運行 している。
これが太極の奥義( 極意、神髄 )であり、
太極拳を学ぶとはこの 精義( 詳しい意義 ) を学ぶ事にある ― ―
と説くのです。
それをヴェーダーンタの方でも
― 「万有の展開は陰陽二力の作用に帰す、誰が展開のいずこより来たりしかを知るものぞ!」と問いかけるのです -
 
 
私たちは太極拳の鍛錬を通して陰陽2力の “ 波 ” の背後の“ 大海 ”を知る者とならねばならないというのです ー なぜならば私達は、 完全なる自由を欲するからです ! ー
老子の言葉にもありましたね。
老子が、一と二の関係をこういっています。
「陰陽二力の作用は、一から、一はどこから来たか、道からである」と 
― 中国でいう奥義はこの 道 なのです。
道が一を生じ、一が二を生じ、二が三となり、三が万物を生ず … というものです。
陰陽は太極から、太極は道から生まれたと。
そして老子も、その道 “ 大海 ”に帰れば永遠に安らぎ、完全なる自由を得るというのです。
ではその道とは何か ― ―
ヴェーダーンタでは「汝はそれなり! それを見いだせ」という ―
人生とはその回答を得るためにあると説く。
『 非常に大事なポイントです。
― + = 0
道の0と太極の 1 とは共に素材は

陰陽であると !! 次の機会に説明します ― これは量子力学であり科学の証明です。 』

そこで「道 “ 大海 ”と物質 “ 波 ”は姿が異なるだけで、 一人一人の 脚下 にあるという、それを太極拳では“ 人人各居一太極 ” というのです。

道交会は、ここに目標を定め、鍛錬する会であっていただきたいのです。
 
 
劉大師が私に言われた“ 心身の鍛錬 ”とは、正にこのことなのです ー
このように東洋哲理が指し示すエキスから、私たちは太極拳をどのように学ぶかを深く考えなくてはなりません!
短絡的、盲目的ではダメです!趣味だけでは長続きはしません。
次に太極拳の陰陽の性質を調べてみましよう。
数式のプラスとマイナス、これが陰と陽です。
地球もなぜか眼には見えない磁力の支配を受けております。しかしその性質を知ることは可能です ―
例えば、磁石棒には赤と青の色分けがしてあって、赤はプラス、青はマイナスです。
ところが、もうひとつ別の磁石棒を近づけると、どうしたことかプラスどうし、マイナスどうしは反発しあい、プラスとマイナスはくっつくということはすでに皆さん方も知っての通りです。
このように、自然界には生命誕生以前より、プラスとマイナス、陰と陽の磁力の作用があり、その中で私たちは維持されているのです。
 
 
次に陰陽を、運動の法則からみてみると「開と合」になります。
開は陽、合は陰に属します。
それを分析しますと ― まず開と合は正反対の動作です。
精気神しかし、合は開から、開は合からでなければその動作は生まれません。
ここに二つの定義が生まれます。
一つは、陰と陽は正反対の姿、性質である。

もう一つは、陰と陽は単独に存在せず、「 二つの性質を持った一つの姿、あるいは二つは一つの働きである 」ということになります。

整理しますと
「陰と陽は正反対の性質でありながら、陰陽は一つの姿とその働きである。」
となります

ここで、覚えましょう ― 「陰陽は、一つの働きであり、分けられない!!」 ということです。

劉大師 精気神 揮毫この法則を、太極拳運動で身に擦り込み、常識化して日常に展開して下さい。
 
 
 
太極拳の練習では「開合」を ― 前後、左右、上下、四方八方 ― に陰陽開合統一せねばなりません。
あげる力は落ちる力と相互作用しなければアンバランスとなって動きは崩壊します。
右にもっていくには左の力を知らなければ正しく右にはいきません、左も後ろも然りです。
太極拳はこういうふうに一つ一つの動作に陰陽のテーマを設けて練習することが大切です。
私たちは、太極拳を通してこの法則を体得し意念において拳を千変万化させるのです・・・。
 
 
カプラという量子力学者が太極拳を学びながら気づいたことは「太極拳とはまさに量子運動である」ということです。
それは、「自然界の運動力学の法則を人体に取り入れたのが太極拳運動だ」、というのです。
科学で宇宙の運動は ― 重力、磁力、弱い力、強い力 ― の展開であるという・・・。
この自然界に有る4つ力をすべて用いたのが太極拳だといっているのです、( これが陳式太極拳の独特な風格である纏シ勁というものです )。
確かに太極拳は落ちる力の反動を動力源として、腰のねじりで螺旋の円運動に変え、四方八方に陰陽二力を結ぶのです。
今、陰と陽の力学的関係を二種申し上げましたが、次にもう一つ、体と心を繋ぐ呼吸の関係でいえば ―
吸うは「陽」、吐くは「陰」にあたり
「深く吐いてください」と言えば、まずは深く吸うでしょ。
「深く吸ってください」と言えば、最初に深く吐きます。
これが 「 陰と陽は別々の作用でありながら、ひとつの働きを現す。」ということです。
これが自然の理なのです。
しかしこの理法を私たちの日常の価値観に取り入れると不思議な現象が起きてまいります。
たとえば、「得をするには、まずは損から」ということになります。
行くということは、帰るということです。
『昔インドで私の友人が禅語にある “ 下山(あさん)の道は上山の道 ” と唱えたら、そばにいた量子力学者は「それは量子運動だ!!」と言って大感激していたそうです。』
「取るとは棄てることなのです」と … しかし未だ科学者はその法則の姿に戸惑います。
なぜならば陰と陽は別物と考え、陰陽和合の理( ― + = 0 )の 太極 が発見できないからです!! 人の思考は陰陽二力のどちらか一方に滞る性質があるので矛盾となるのです。
これが天地陰陽からはじきだされた法則であり、我々の日常を正す基準でもあるのです。
さらに、はっきりと知っておかねばならない事柄は、本来私たちも自然界の生み物として、今ここ! この法則に則ってあるということです。
私達は “ 天地人一体 ”のものであって本来は自由闊達であるはずなのですが どうしたことか、自身の“ えり好み ”から陽にかたより一陰九陽となって心身のバランスを崩しているということであり、 その陰陽矛盾から苦を生むということです ―
ここです!!
まず太極である統一“ 0 ”を知らなければ日々の陰陽( 損得、善し悪し )に、バランスが保てず、一方だけに滞って苦を生むのです。
― ―

理論は、非常に抽象的な姿ですが、それを具体的に日常で、どのように用いるかをしっかりと鍛錬せねばなりません。
― ― ―

つぎに、身体と心の関係ですが ― 手の平を上に向けて、次に下に向けると印象が変わりますね  ―。
私たちは、からだと精神は心身一如であるということを知ります。
「座ると」と思えば、座る。

「立ちなさい」といえば、立つ。

「行きなさい」といえば行く。
それと同じく、からだが痛めば心も痛み、体の変化に心も変化します。

ですから、心身は別物ではないのです。
「太極拳運動はからだを調え呼吸を調えそして精神を調えるもの」と考えてよいです。身体は力学的で目に見えて分かりやすいものですからね ― 「気を降ろすために、肩の力をぬいて胸の力も抜く」というと、正しく下腹にぼんと落ちてくるものがあります。

このところを丹田と言い、練習の過程でしっかり鍛錬しなければなりません。

すすき2天地陰陽の合一が丹田の場、即ち人体の中心にあるのです。

丹田に陰陽が正しく合一したとき、これを・・・太極の気象と云い・・・呼吸も止息の境に入る。

すると三性は( 眼性、耳性、意性 )内面に合一となるのです。

この時に !!、 波は大海を知るのです。
色合いでいえば陰と陽は、白黒に分かれていても、統一すれば無色透明となって三性合一( 無分別智 )の境に入る。

『中国では、赤を陽とし、青を陰として色分けします。そして赤と青が、かみあってひとつの姿を現しているのです。

あれが陰陽マークで、量子力学の父、ニールスボーアが自身の墓の紋章に選んだのです。』

人体力学で気沈丹田の陽と、虚霊頂勁の陰が、一本の柱となって体中を貫く時、 心は分別知の二力を離れ、統一的な無分別智( 太極の気象 )を得るのです。
太極拳の鍛錬は1陰9陽から始まり ・・・ そして5陰5陽となって極意を得ます。

極意は“ 0 ”で時には陰、時には陽を知って陰陽に遊ぶ

これを 禅では
“ 遊戯三昧 ”といい、やはり禅の極意ですねー
ど〜〜〜ぅぞこの放松力( 0 )を完成してください ―

こうして(実演)お互い上下に引き合わせればいいのです ・・・ 。

そう ― 動中の太極と、静中の太極がありますね。
動中の太極は、五陰五陽で太極、静中の太極は、天陰地陽、人体の気沈丹田と虚霊頂勁 これが天地人合一という境涯です。

実はそのまま座すれば坐禅なのですね ―

 同じです!

言葉での説明は難しいですが、体得は決して難しいものではありません。
なぜならば“ 人人各居一太極 ”ですから、本来そうなのですから・・・。
くどくど申しますが、矛盾の出どころは、日常の我々の陰陽二気が損得勘定となって、陽気の気分( 勝ち組 )が陰陽のバランスを崩す元凶なのです。
ですから、自然体( 太極の気象 )に帰れば、心身の天地人合一が完成されて、完全円満無限絶対なる大海に入る。
難しいことではありません。
難しいと思うのは、自分のこだわりの気分を捨てられないから難しいのです。
台湾
たとえ今それを捨てられなくても大丈夫!
太極拳の進歩の過程で自然に放捨できます。
天地人合一の境 ― ― どうぞ今申し上げた陰陽の理論を自分自身で深く探求追求し、反復練習の中で心身に刷り込んでいってください。
そして日常の生活に工夫をすれば・・・人生の達人となります。
 
明朝洪武七年
始祖ト耕は、
陰陽開合運転周身の術子孫に教えもって消化飲食の理法となし、これは太極に基づく学問で、ゆえに 太極拳と呼ぶ ー ー ー。

( 道交会 御殿場合宿 にて    2011年11月6日    精気神 18号に掲載)

以上

馮大師追悼特集

馮先生以下馮志強真伝より
” 私は自分が「 真理 」と向き合い続ける幸せな人生を送っているといえる。
その私がしみじみと感じていること ― それは 「 太極 」の奥深さ、道の深さである。実際私は 「 太極 」の入門者にすぎない。 太極拳はいささか修めてはいる。しかし、「 太極 」はやっと少し分かり始めた、いわば小学生にすぎないのだ。
「太極」とは、この世の、宇宙のすべてを包み込み、そしてすべてに貫通する哲理であり真理である。ー ( 太極は一切の中にあり、一切は太極の中にある ) ー その大を尋ぬれば太極に勝るものはなく、その小を尋ぬれば太極に及ぶものはない。ありとあらゆるものが、私たち個々のいのちも含めて太極を離れては存在し得ない。私たちは 「 太極 」 の中で生き、「 太極 」 に満たされて生きている。それは 「 規律 」 と呼ぶこともできる。 誰しもが、そして無機物も含めたすべてのものがそれに違反しては存在の根拠を失ってしまうのだ。”
( 有情 非情 同時 成道 草木 国土 悉皆 成仏 ・・・ 仏陀 )
                                          南無 ・・・・ 大師
*******************************
太極道交会 指導員のみなさまへ
突然ですが!
” 馮志強老師が、昨日5日の午後にお亡くなりになられました ”
心より御冥福をお祈り申し上げます。
ー ー ー
それにしても 驚きました!
というのも 大野田さん、永井さん、共にご存知のように ー  今回の接心の前日に、初めて九州大分から二名の方が参加され、その夜の懇親会の席上で、先生が  ー 「 正師を得なければ、修行しても仕方がない 」という話から、まず陳家溝四天王の話をされました。 その後北京の馮老師の話しになって ー
唐突に!
「 馮老師はもうすぐ亡くなられるかもしれないね… 」
とおっしゃったのです ー
私もはじめて聞く話しで何のことかと耳を疑いましたが … 先生がおっしゃるには ー 「 2、3日前に馮志強老師の夢を見た 」 そうです …
先生は「 その夢の中で最も印象的な場面は、馮老師は、重い左腕の功夫を私に見せつけておられ ー あたかも私に最後の太極拳を伝授して下さっているようだった -」 とおっしゃいました。 そして先生はその夢を「 霊夢と察し目覚めて、もしかしたら馮老師は亡くなったのか … 」 とそのとき直感されたそうです。
今、あらためて馮老師の訃報を知り、
先生は、夢の続きを私に語られました。
「そういえば馮老師の 功夫を見たその傍らに陳項老師がいて、何故か彼の猛烈な震脚を垣間見た! あの場の印象は独特な雰囲気があり、あまりにも示唆的な夢であった。  だからその朝、馮老師が私に対する最後のメッセージではないかと直感し、馮老師はもうそんなに永くはないな ! と分かったのです。」
ということです、 驚き入りました!
そして先生は 「 正夢の真意は  ー これからも陳項老師について学び、共に混元太極拳を極めていくようにという馮老師の思いではなかったのか、と思う ー 」 と、しみじみと語られました。
さらに言われるには
「 そういえば太極接心最終日の5日朝、5時から外で気功法から混元24式に入った直後、 ー 自分のレベル以上の外気の力を感じた ー それは今までになく新鮮な充実感で満ち溢れ、一瞬何かを会得する前兆かも、と感じたほどだった ー もしかしたら直接、馮老師が指導していて下さっていたのかもね ………  でも大丈夫!! 今日ほど馮大師の言われる
” 私はこれから 1000年 かけて太極を極める ”
のお言葉が真実味を増して力強く伝わってくる日はない !!
道交会員は皆この道心を受け継いで行こうではありませんか ー 」 と ー ー ー 。
普元 拝
( 5月6日 本部より指導員宛メールに送信 )

物我両忘

不動明王 玄賓菴

山口 博永 

 

剣禅一如

山口博永道長 太極拳 世間で云われる剣禅一如という言葉があります。 しかしこの言葉の意味を正しく理解する人は少なく、多くは誤解から自己満足に陥ったり、何にでもくっつけられる禅に対して嫌悪感を持つ人も見受けられます。
それは習い事としての 拳、剣、茶、華 … 等、は人から離れて、文化やあるいは武術として単独に有るかのように誤解をするからであります。
それらは人間を離れて外に一人歩きをする訳でもなく、また人にくっついてあるのでもありません。
正しく云えば、人が拳をやる時拳が人、人が拳であるのです。 拳、と言うはその理を指し示す名称で理を実践する人がいてこそ理が現れるのであり、人がいなければ理は現れようがないものなのです。

また、これら理には深浅がある事も知っておかねばなりません。
如何なる習い事にも段階があって形ある法則(理)から形無き法則へと進んでまいります。 さらにその先へと進むと必ず自分自身が問われてまいります.
この自分を見据える段階から:道: ( 剣道、華道…等の道の意 ) と言い、自分を学ぶことから禅と云うのです。禅とは自分を学ぶと云うことです。
太極拳
太極拳で説明しますと ー 《 有形に始まり無形に到り、無形は心機に入り、その妙界から遂に無心に帰して初めて拳という 》 ー 初心者の習い事の入り口には、習い方を示す意味で色々な名称や説明が無くてはなりませんが、後には名称を離れて師にしたがって形にはまらねばなりません。この段階は未だ理には馴染めず師の形を追いかけるのが精一杯の段階です。そこから時間をかけて形を習得して自分のものとして行きます。
山口博永道長しかし、多くの人達はこの形の熟練までで、その先の無形に行く人は稀です。
それは趣味程度の心掛けではその先に行けるものではないからです。何故ならその先は練習時間を増やし外面から内面へ、人の目を気にする目から自身を観る目が必要となるからです。
( 宮本武蔵の五輪書に見の目から観の目と解かれてあります ) 習いごとの熟練から、自分を問う学びが始まるのですが、ほとんどの人達はその理解すら出来ず、また形の習いごとだけでは気力が萎えてマンネリと化し、ついに止めてしまいます。
例えば富士山を登るにしても登山口はいろいろです。
しかし、趣味程度の登山ではどの道を通っても途中の景色に見とれ、よそ見をし
しまいます。それではその先に行く事は出来ません。そのうち景色にも飽きてしま
い、自分の居場所すら分からなくなって止めてしまいます。趣味の限界です ー 外の景色よりも頂上を目指す喜びとその決心が必要となるのです。
ではその先とは、 ー 形の熟練から形は気にならなくなって、・やる・自分自身も少しずつ問われてくるのです。
そして、さらにやる気を出して先の理に自身を摺り込んでいかねばなりません。
ー 登山で云うならば、頂上に至る魅力から外の景色は気にならなくなって頂上を目指す標識を見つけて、迷いなく力強く一歩を踏み出す段階です ー 更なる熟練からゴツゴツとした個体的な形が、気の体となり、吹く風、流れる水の如く ( 一気貫通 ) に自在となり、自身を観る観察眼が深まります。 … 自己満足が終わって、自己表現となるのです。その先には自分自身も取り込まれていく無心の世界、自己実現があります。いよいよ頂上を仰ぎ見て標識も必要としない五合目に到達したのです。
自己実現
山口博永道長 ある時、私は書道家の方に 『 冬、梅の木を見ながら梅と書く字と、春、梅を見て梅と書いた梅の字の形は異なりますか? 』 と聞いたところ、少し間をおいて 『 変わります 』 と仰いました。
それで私はその方に弟子入りをしたのです。
 
又ある時、禅の話しの流れから手段と目的の合致を意として生意気にも、私は師に向かって 『 書家から筆を取り上げると何が残りますか?』 と聞いた事があります。このときは間をおかずに 『 何も残りません 』 と正直に仰いました … この問答には有形から無形、そして自分自身をその法則 ( 手段 ) に摺り込んでしまう世界、禅が目指す無我の我(自他一如)を問うているのです。
禅の道とは、自分の内面を調えながら : 天地いっぱいの自己実現 : まで行くその歩みを云うのです。
その為には学びの極意とする法を学ばねばなりません。
山口博永道長それは、森羅万象と同化する法則 ( 自他一如 ) であり、ゆえにその法は自身の自我意識をきらいます。道の歩みを止める一番の障害物が自身の分別、自我にあります。
ここに気づいた時から禅的となるのです。禅はこの障害物を消滅させる法を説きます。
 
ー禅的生活ー
人は意識において何をするか、したいかを決定します。
だいじな事は、学びの初めにあっては拳も禅もそれは手段であり、その先に目的があります。
又その手段を用いる前に何故という動機があるはずで、この動機のもとに手段を選び目的を達成しようとするのです。
山口博永道長この三段階は、熟練の暁には一つになるのですが、学びの入り口では、三つをしっかりと吟味せねばなりません。 例えば、どのような立派な弓矢が有っても的が無いと何の役にも立たず、その反対も然りで … また弓矢と的があっても射手がいないとこれまた弓矢も的も無に等しいのです。 問題は、的 ( 目的 ) と弓矢 ( 手段 ) 、それを射抜く射手 ( 動機 ) が無くては何事も始まらないということです。
さて、ここにもう一つ非常に大切な事柄があります。これが禅的生活の一歩であり、この理解がなければすべての行為は自己満足で終わり、結局は何の成果も解決も無く、虚しく終わるでしょう … 。
それは行為の動機に対して ー 何の為に ー !! と、更にその背後を正さなくてはなりません。
禅門では … 発心 ( 動機 ) が正しくなければ 、どんなに頑張ったところですべては虚しく終わるぞ! … と注意を促します。
例えば以前こんなことが有りました。私に太極拳を学びたいと云う若者に 『 何故太極拳を学びたいのですか 』 と聞くと 『 強くなりたいからです 』 という … 動機は強くなりたいのです …さて、ここなのです … 『 何故強くなりたいのですか 』 と問うと、返事がありません。 ー  自分の弱さがみえていない! ー
又その人がもし 『 弱いから 』 と云うなら、 『 あなたのどこが弱いのですか 』と問うたでしよう … やはりはっきりとした返事は無いはずです。
結局は漠然と自分を弱い者とみて、これもまた漠然とただ強くなりたかったのです。 ( この漠然を趣味程度と申します ) 世間一般ではそれで入門は許されるでしょうが、禅の生活ではそれを許しません。
何故ならば、強さを求める事ではなく、問題は、自分自身の弱さを知ることであって、あくまでも思いつきの動機で善しとすることなく、深く背後に更なる原因を追究せねばなりません、… 素人は悟りに迷うが玄人は迷いを悟るのです …
正しくは、問題は問題ではなく、問題にしている自分が問題なのです … 禅的生活では、全ての行為は自分を学ぶための暗示とせねばなりません。
そうなのです、何をやるにも やる人の意識が問われ、正し、深めねばなりません。
ー問題意識を正すとは何かー 理
山口博永道長 私たちは人間であり、生きるとは、自己の自由を獲得する事です。人は、束縛を不幸というのです。
… ところで人間の正義は人間世界のみに通用して動物界には通じません、何故ならば私たちは動物を食して生きているからです。
では植物界はどうでしょう … 。
同じく人間、動物の生命維持の対象です … 破壊者の中に、真の自由はありません!
さらに人間、動物、植物から、生命世界に広げた価値観を正すことで、地球環境問題からいっても、人類にとって如何に大切な事柄で有るかは十分に理解できます。
しかし、その生命世界は空気、水、大地、太陽 等 … の存在世界の恩恵を受けていて、そのうち一つでも欠けると一瞬にして全ての生命は消滅してしまいます。
条件つきの自由は真の自由とは申せません 。
人類の要求は有史以来、永遠に安らぎたい全てから自由でありたいと願っているのです ー しかも無条件に ー 何か一つでも条件つきの束縛があれば心から安らげないのです 。
そこで、問題意識を正すとは!
それは自らの平安を得るために、より普遍的な単位である、存在を問わねばなりません!
その価値観を深めねばなりません  … より普遍的に、更に普遍的に、存在を許す時空間までをも含めて解決しなければなりません!
私は誰か!
一切はこれ何物か!これが禅の問いかけなのです。
一切に共通する価値観を見いださなければ真の平安は訪れないのです 。
それを、別の言葉で表現しますと … 多様性の中に単一性を見いだせ! … となります。
この問いかけとその答えこそが究極の問答であり、人類永遠の謎でもあるのです。
禅は … 一即一切、一切即一 … と答えます。
矛盾 ( 多様性 ) を統一 ( 単一性 ) する法にこそ一切の平安が達成できる!と暗示をするのです 。
ー問題意識を正すとは何かー実践
山口博永道長 拳禅一如とは、精神を統一する 《 禅 》 、その方法 《 拳、剣、茶、花、柔 》 により、それを獲得しようと試みるのです …
これをみても拳禅一如とは、その理と実践のもとにそれを表現し、実現するのは自分であり自分以外の問題ではないのです ー 自己を学び、自己の人格を完成するためにそれらの習い事が有ることを理解した者が拳禅一如の意味を理解する者なのです。
禅的生活を定義するならば  ー 今ここに、動機を正し 心の統一を実践しながら、
自らの中にその回答を得てゆく ー  というものとなるでしょうか … 。
禅の方便的生活においては心身の健康など、自分に利益することが上げられますが、あくまでもそれは方便であり条件つきであります、真実の自由においては 生死を超越して不生不滅に遊ぶものでなくてはなりません。
山口博永道長けっして大げさな事ではありません。
禅はそれを解き明かします。
太極拳もその熟練において、太極の気象に入ればわかります
《 太極の気象を禅では一指頭の消息と申します 》 。
 
太極拳は一般に武術であると単純に考えがちですが、そうではなくそれは時代の要求にしたがって、理の用い方による表現の異なりにしかすぎません。
太極拳の愛好家でもある科学者 F・カプラは太極拳を評して、宇宙の運動 《 量子運動 ( 著書・タオ自然学 ) 》 と表現しますが、一番的確な表現ではないでしょうか。
要するに全ての習い事の理の深浅のその用い方によってその人の真価が問われるということです。理は人・・・人は理を学び修して、本来世界に帰りたがっているのです。

山口博永 道長 一燈禅林にて
山口博永 道長 一燈禅林にて

 
 
 
 
 
 
文章は、karna 2009 年 1月号に掲載

法から観た 太極

 

« 禅から説く 太極の気象 »

宇宙全体を 一つの働き の上に全部おさめてとけ合ってしまえば、

修証は一如 ( 修中の証 証中の修 )であって

一如は体現( 人格化、自己確立 )となり、一人の修証も又全体の修証 ( 自他ともに脱落する、天地人合一 )となる。

原田祖岳老大師

独立
独立

乾坤大地

一指頭に究尽す

雨降り 風吹く 是れ何ぞ !!   

 ( 道交会 公案 )

 

« ヴェーダーンタから説く 陰陽太極の姿 ( ー + = 0 ) »

この世界では、すべての幸福はその影として不幸を伴っている ということをわれわれは知る。
生はその影である死を持っている。 彼らは共に行かなければならない。
彼らは相矛盾するものではなく、二つの別々の存在ではなく、一個のものの異なった現れなのである( 葉の裏表 )。
生死、悲喜、善悪、みなそれである。
一般概念として、 善と悪は二つの別々の存在であって両者とも永遠に存続すると考える二元的な概念は、見ただけで不合理なものである。
両者は、同一事実の異なった現れである。
ちがいは、種類の中にあるのではなく程度にあるにすぎない。

ヴィヴェーカーナンダ