サトル学会の講演

2010年10月24日 サトル学会 秋の大会(シンポジウム)において

山口博永 道長の講演内容

私はこういう場で話しをするのは初めてですし、いつも直感でしか話すことが出来ないものですから話しがあっちこっちと飛びましたらご容赦ください。

昨年の今時分、サトル学会からこの場に招待されまして、 一時間半ばかり講演を拝聴いたしました。それは、昨年の3月か5月に神尾学さんから「サトル学会で講演をしてくれませんか」と、依頼を受けたのがきっかけで、学会の様子を知りたかったからです。

最初、正直言って「サトルエネルギー学会なるものは、その名称からして怪しげな会ではないか」と思い、世間知らずな私ですから ‥ そこで私の仲間たちと相談をした結果、「よく調べてからにしたほうがいいのではないか」という結論を得ました。しかし、神尾さんからもいろいろと話しを聞いたり、また学会誌の帯津先生のサトルエネルギーの紹介文を読ませて頂き、「これは怪しげなものではないな、しかしながら、その背後にある究極のところまでたどりつかず途中で迷ってしまうとやはりこれは怪しげな魔境ものになってしまう」という気がしました。

今日の私の話は、禅と太極拳、それが目標とするところ、つまり、かのアインシュタインも言う「物の背後には深く隠された秘密がある。真実は単純にして美しい・・・」とする“ここ”この意味について話させて頂きたいと思います。

奇しくもこのアインシュタインの暗示するところが、ちょうど私が太極拳や禅の目標とするところに合致していて、私の人生はそれを鏡のごとくに照らし合わせてきたものなのです。そして又この言葉がサトルエネルギー学会の帯津先生の言葉とも同じ内容であることを知り嬉しく思いました。 しかし先ほども申し上げましたように、途中の魔境はなかなか厄介なもので、そこに陥るとなかなか抜け出ることができず、初心を正して突破せねばなりません。 アインシュタインの言う“単純にして美しい”というところまで行き着かねばなりません!そのことについて、私は未熟ではありますが、実体験してきたことを、少しでもご紹介できればと思います。

私の幼少期は非常に感受性の強い子どもであったようです。その中でも私の人生に一番大きな影響を与えた出来事がありました。 それは母が、ある寒い朝縁台に新聞を広げて驚きの声を発しました。母はその記事を食い入るように読み終わってそして私に向かって「お前もなぁ!こういう人になってほしいなぁ」と言ったのです。

私は母の悲痛な叫びに似た声に不安を感じながら「うん、わかった、なったる!」と、そうきっぱりと言い切ったのです。が、しかし、それはインドのガンジーが亡くなったという記事で、しかしながらガンジーが亡くなったのは、私が一歳の誕生日を迎える一週間前ですから、私はまだ一歳になっていなかったのです。ですから今、話した母の思いに対して私の「なったる!」という言葉は言葉ではなく感覚であったのでしょう。しかしその時その思いが強く潜在意識に叩き込まれて、言語が理解出来るころになって、今申し上げたような言葉となったものだと理解いたします。今もその金色に輝く朝日の情景とともに母の表情その印象が強く心に焼き付いております。 それから、次に大きく影響を受けた出来事はやはり母であって、その母と生き別れになってしまうのです。私が、4歳の時でした。

幼少期の非常に悲しい出来事でした。幼心にも無常観を覚えました。人生は、なぜ思い通りにいかないのか・・・、なぜ自分の思い通りにならないのか・・・、何か条件付きで、何者かに支配されて私たちは生きているのか・・・、この言葉も後になって出るのですが、そのような思いを強く抱いた幼少時代でした。

そして太極拳との出会いですが、それは私が8歳の時に見たニュース映画の出だしに1人の老人がゲートルという布を足に巻きつけた後、あぜ道をとぼとぼと歩きながら広い場所に出ました。そして突然すくっと立つなり、ゆるやかかに動きはじめたではないですか。それが私にとって衝撃的であったのです。 今まで出逢った事のない堂々とした姿、その動きに人間の神々しい尊厳を見たのです。そういう出会いがニュース映画を通じてあったのですね。私は勿論「やりたい」と、「絶対にそういう人間になりたい」という強い思いを持ち感激でいっぱいでした。 ただ、その時それが何であったのかわからず時が過ぎ、私が実際太極拳に出会えたのは18年後の26歳の時でした。

今申し上げた4歳の頃から、私は人生の悲しみに打ちひしがれて、物心がつく15歳の頃「これを解決しなければ私の人生はない」と思い込み、私の心の奥底から吐き出した言葉・・・。それは「どちらにどう転んでも大丈夫な世界はないのか」というものでした。 この意味は、「苦であっても楽であっても大丈夫な世界はないのか!」というものです。 この言葉が私の人生を決定した問い掛けで、今考えてみてもすばらしい問いかけだったと思いますね。 「良いものをとって悪いものを捨てる」、「苦しみを捨てて楽を得る」、こういうふうに私たちは物事をふたつに考えて生きています。しかし、善悪をわけ好き嫌いや損得勘定という条件付きの人生であっては、決して絶対なる安楽と申しますか、平和と申しますか、やすらぎ、そういうものは得られません。そのことを私は15、6歳のときにわかったのです。 いかがですか!?

「たとえ苦にあっても楽にあっても、どんなに悲惨な状況であっても、絶対無条件に大丈夫な世界はないのか」。この問いかけのもと私は禅や太極拳と出会ったのです。そして、その問いかけに回答を求めて修行を続けてきたわけです。

そして私は今山岡鉄舟の、つぎの言葉、「晴れてよし、曇りてもよし、富士の山、元の姿はかわらざりけり」という回答を得ております。

私が選んだ太極拳および禅から自分の中に同じ心境を得ております。そういう意味では私は幸せ者ですね。

今申し上げたことが、禅と太極拳の修行のいきさつですが、次に太極拳と禅の共通点はどこにあるのか、ここのところをちょっとお話させていただきます。修行編ですね。

太極拳は、ある意味、武術として紹介されています。でも、もともとは「陰陽開合運転周身の術」と言ったのです。それは、陰と陽、その相対二力の作用において、体を開いたり閉じたりして、そして、全身に気をめぐらせるとともにその中心、一気太極に帰るいうものです。それはまた「もって消化飲食の理法となす」といわれます。

すなわち、日常生活にあって心身を調え、からだと心を養う健康法であるということです。ある意味これは気功法ですね。それが「一族を守らねばならぬ」、という時代の要求において、その開合の運動を攻防技術と化して使ったものが、今言う武術的太極拳となります。しかし、その名称からして本来は“一気”、更に心身の背後にある統一的エネルギー“太極”を悟る法でなければなりません。このように「ものの背後にある本当の力」を自分の中で体得し、運用していくのが、真の太極拳の狙いどころなのです。今言う、陰と陽の二力において運動の法が起きるのですが、これは運動、動的な行法から“それ”に帰る法です。

そして、もうひとつ心から入る静的な禅では、“それ”をいかにして会得するかと申しますと、たとえば禅には公案というものがあります公案とは、師から弟子にひとつの問題を与えて、弟子はその問いである言葉を一念と化し坐中に「なりきって、なりきって、なりきって」その公案に忘我して解いていくのです。

その有名な公案に「父母未生以前における本来の面目」 というのがあります。これは父と母が未生、すなわち、いまだ生ぜずときにあなたは何者か?という・・・ものです。皆さん方も考えてみてください。「お父さんお母さんが生まれる以前のあなたは誰か?」、分かりますか… それが分かれば本当の自分がわかるという公案です。この禅の公案の父母を記号や符合でいえばマイナス、プラス、あるいは陰陽にあてはめて良いのです。

太極拳では、「陰陽未だ生ぜざる前の力」、陰陽という二力が生じる以前の力のことを「太極」と名付けます。ゆえに父母未生以前の本来の面目の、面目を「太極」とおいてもいいわけです。あるいは、サトル学会におけるサトルも「物の背後にあるそのもの」という意味で同じなわけで、良い問いかけをしていると思います。

会長の帯津先生は、太極拳を治療にとりいれてやっておられる方です。私も20年前、親しくお会いしたことがありますが、帯津先生は今回の学会誌の冒頭に、「人間社会をとりまくその背後に隠されたサトル、微弱、微細、ほのかなエネルギーを科学するのだ」と言っておられます。これは、よい問いかけです。人間社会を取り巻くその背後に隠されたそのサトル・・・。「サトル」とはいかなるものか、ここが大事なところです。

また、先生は、もうひとつ「見えない意識と見える物質との橋渡しがサトルエネルギー学会の21世紀の使命と思っています。」とも言っておられます。

「見えない意識と見える物質の橋渡し」、これは先ほどの陰陽と陰陽いまだわかれざる以前の世界、「太極」であり、父母未生以前における「本来の面目」というものも同じ意味です。

また禅には、「万法は一に帰る」という問いかけもあります。

万法というのは今いう陰陽二力の作用から生み出された物質的現象一切、森羅万象全てです。老子の宇宙観がそうですね。老子曰わく「道は1を生じ、1は2を生じ、2は3となり3は万物を生ずと」

我々の一切の現象世界はこの二力の作用においてあるというものです。老子の宇宙観では、「この作用はどこから来るか」というと、この“1”から来るというのです。禅における「万法は1にかえる」は、老子と同じ見解ですね。また、ヴェーダンダの方においても“多様性の中に単一を見いだせ!”すなわち「万有の展開は陰陽二力の作用に帰す。誰か展開のいずこより来たりしかを知る者ぞ・・・」となるのです。

万有の展開とは、人間的社会的すべてを含んだ現象のことです。帯津先生は、「この人間社会の現象、それは背後に隠されたサトルというエネルギー、そのものに関係してある」と言います。さあ、その正しいサトルとは何なのでしょうか。

私は、こういう問いかけのもとに、私たちの人生があるならば、この人生は決して無駄には終わらない必ずや成功をおさめる!、と思っております。

ここにおられるみな様方は共通して、「その背後にある力、それはいかなるものか・・・」を自分自身の中に見極めていただきたいと思います。

太極拳は、2と1の関係、それを運動の法において取り入れます。それは、地球の重力に「ねじり」をいれて、「陰陽、虚実」の相対的な力関係を結びつけ、開と合、開くと閉じる、このように人体を動かして、「1の世界から2に転じ、2の世界からまた1に還る・・・」というように、1と2の関係を結びながら(無為自然の法)人体にすりこんでゆきます。 これを人体にしみこませていけば、そのエネルギーから精神的世界にそれが及ぼされていくのです(心身一如)。

それが「天地人合一」という境地を生みます。境地というのは、自ら「うん!」と自知するところのものです。太極拳は、それらを表現しながら体得していく運動の法といっていいと思います。太極拳は「陰と陽」、すなわち強いと弱い力、「ねじり」という磁気力、そして、重力、の4つを使います。これは宇宙間に存在する4つの力でありますが、その4つの力すべてを使って運動をするものです。

 では、実際、それはいかなるものか、ご覧になってみてください。

・・・(太極拳の演武)・・・(拍手)・・・

有難う御座いました。いかがでしたでしょうか、37年かけてようやくここまでたどりつきました。それではあまり時間が有りませんので、次に、先ほど紹介して頂いた菩提心について、“菩提心”が、ものの背後にどうつながっていくのかについて話したいと思います。

この菩提心という言葉は、キリスト教でいう「神の愛」と同じ意味です。

この菩提心は、仏教用語で「己れ未だ度らざる前に一切衆生を度さんと発願し営むなり」、「自未得度先度他の心」と言います。「自分が救われる前に一切を救いとどける」、「自分のことはどうでもいい、すべてが救われれば・・・(上求菩提、下化衆生)」という菩薩の誓願です。

サトル学会の、この「サトル」の本当の意味を「悟る」ならばですよ。この菩提心に落ち着くはずです。

禅ではよく、喩えとして、「波と大海、大海と波」というものを使います。今この宇宙間にある物質的現象の一切を大海の〝波〟ととらえます。 そして、「その波の根っこは何なのか・・・」と言ったら、勿論「大海」です。先ほど申しました「万法は1に帰る」という禅の言葉は、「すべては大海から生じたものであるから波も大海である」という意味なのです。

太極拳も同じです。陰と陽の二力の作用、手足、上下の動き、全部それは互いに引き合い相互関係にあるのです。

2つはお互いに引きあって、最終的に、「五陰五陽」となるのです。「五陰五陽」を数式であらわせば、「マイナス5プラス5」となり、その結果は0です。修行のはじめにおいては、「一陰九陽」です。すなわち、陽が9で陰が1、マイナス1プラス9からはじまります。そして「五陰五陽」において、完成します(矛盾の統一)。

私たちは、矛盾の波の存在であるとどうじに、統一の大海、すなわち「0」あるいは「1」であるのに、なぜか統一の大海世界をなかなか理解できません。どうしても根っこ見ず他の波と比べてしまうからです。「自分と他は違う」というようにです。自他の波を比べて、良いとか、悪いとか、損だとか、得だとか好きだとか嫌いだとか、という分別心に揺り動かされます。

今言う「分別」は決して悪いものではありません。白と黒をはっきりさせないと物事ははじまらないのです。

しかし、その分別にあっても「五陰五陽」、すなわち、その根っこであるところの「大海」を知らないと、あなたと私は別のものと映ってしまいます。

でも、もし自分が「大海」を知ることができたら、「あなたの根っこも大海、私の根っこも大海」とわかったとき、すなわち「森羅万象の根っこは全てが大海だ」とそれがわかったときに、この学会でいうサトルエネルギー(根元)を理解できたことになるのです。そしてそのところに、「“あるもの”が有る」のです。

それは、「永遠なるやすらぎ、完全なる自由」です。大海はひとつですから、他と比べようがありません。そういう境涯を味わった後に、実はここが又大事なところなのですが、ここで終わってはいけないのです。

よく、「解脱」とか「悟り」という言葉を使いますが、「解脱」という言葉は、決して大海を知ってそこで終わりにするものではないのです。それが仏教の大乗の名称でこのところを示唆しています。どのような事柄かと申しますと、大海に入った後に「もう一度波に帰れ」というものなのです(大死一番、大活現成)。

波が大海を知らないあいだは、損得良し悪しで、戦争が起こります。しかし、大海を知って、一体感のもとに相対の波に帰ると、そこに「同体の悲心」が生まれます。「同体の悲心」とは、一心同体の悲心です。「悲心」とは悲しみの心ということですが、では「何が悲しいか」というと、「矛盾」を悲しむのです。「本当はそうではないのにどうしてそうなのか・・・」、これはある意味、母性愛です。

お母さんは子供がすやすやと寝ている時、お母さんではありえません。子どもが泣き叫んだとき、お母さんとなります。

母性愛、これは女性の中に本来あるものではあっても、普段はそうではありません。「悲しみ」が生じたとき、はじめて、お母さんとなって、全身全霊をかけてここに「救済、統一しよう、矛盾を統一しよう」という働きが起きます。この「母性愛」、我々が日常目にするこの「母性愛」というものこそが、宇宙の本質的な法則なのです!、すなわち矛盾の統一という働きなのです。キリストでいう「神の愛」、仏教でいう「菩提心」、の働きが出てくるのです。その理由は、私たち肉体は物質であっても、決して物質で終わってはいないからです。なぜならば、その背後に「智性(無分別智)なるもの」がありますから・・・。

この「智性」は物質を超えています。いずれそれは科学でも証明されると思います。

帯津先生も、「見えない意識と、見える物質」として、「現象の裏にある物質の本質を認識することによって、社会人類に貢献できる」と言っておられます。これが今言う「同体の悲心」です。私たちは「知る」という力を持っています。この場合の「智る」とは、決して自我意識という分別心のことではありません。 「善いか悪いか」を分別して気に入ったものを自分のほうにひきつけて、嫌いなものを排除するというものではありません。確かに、これも知性のひとつですが、 これは心のまだ途中の段階、魔境にすぎません。これは、「自分だけが良ければのエゴ性」にすぎません。

このエゴ性の段階は通らねばなりませんが、その域からさらに深く入った時、すなわち波の底を抜けきって大海に突入したとき、その心(同体の悲心)がはじめてほとばしりでるのです。これは「智性(転識得智)、無分別智」の力です。

こう考えますと、我々の日常の意識世界は、「にごった知性、(無知無明)」と考えて差し支えありません。

そして、そこを突き抜ける為には心の統一的「行法」、修行をせねばなりません。それはなんであってもいいのです。私は禅と太極拳を選びました。その行法に、一心になってなってなりきっていく・・・、それが要求されます。

たとえば、現象を観察して、唯一正しい道理になりきっていくこと ー 自分にとって良いか悪いかではなく、正しい理を得て、そうでないものを排除していくことです。その為には正しい師から、正しい理をしっかり聞き身につけなければなりませんーそして真理の物差しによって分析していくことです。それは科学的であるべきです。あるいは、自分を忘れて一心に、祈ることでもよいです。キリスト教でいう、「神に祈る」ことです。しかし祈りには段階があって、最初は自分が良ければ良い、から「自分が自分のために祈ります」、その次に、何か苦しいことがあれば神頼みで「自分のために神を祈る」段階がきます。

そして、そこから道理をわきまえて無知を知り懺悔によって本当の祈りとは何かを知るのです それが「神のために神を祈る」段階です、この段階が神に成りきるという大切なところで、そして大海に入り大海から神の悲心を得て 「神のために自分を祈る」神の意志による無私の行為となるのです。 このような段階が、キリスト教においても設けられているわけです。 この段階に至った方がマザーテレサであり、神の意志としての救済活動が行われたのです。

以上のことを整理しますと、私たちは、「虚空の海の波」と捉えていいかと思います。そしてその波は、「虚空という世界観、虚空の中にある真理(矛盾の統一)」を見極めて体得し、もう一度我々人間社会に帰ったときにはじめて、大活現成、無私の行為ができるのです。

宮澤賢治は言います。「自分のことはかんじょうにいれずに、生きる苦しみ、老いる苦しみ、病む苦しみ、死する苦しみ・・・、そのあるところにいつも行ける。私はそういうものになりたい」と言っています。宇宙から生み出された私たちの本質はもともとそういう(自未得度先度他)のところにあります。ですから、最初の出発は自分のためでもいいのですが、しかし、徐々にわかってきて、本当の意味の「解脱」、「悟り」がくるわけですが、そこに至ったときのひとつの物差し、証明になる言葉として、「自分のことはどうでもいい、すべてがよければ」の心境があります。

そのような人格になった時、「自分は正しい道を歩んでいる」ということになるのです。

最後に、帯津先生は、「生きる悲しみ」について述べています。帯津先生は、西洋医学者です。それが西洋医学からの行き詰まりから?東洋医学、中医学に目覚めて、「患者さんの顔から心の状態が見えてきた。そして明るい前向きな心が病状の改善をもたらす」と述べていらっしゃいます。

すなわち、体と心の問題として、「体の治療だけが決して医療ではない、心の治療が大事だ」ということに気づかれたわけです。

たしかに、同じように言う先生方は他にもたくさんおられます。

明るく、「笑い」などを取り入れていくと病気は改善する、と。しかし、帯津先生は、末期という我々の究極的な苦しみ、すなわち死というものを目の前においたとき、決してそれらは自分の救いとはならない。さらに「明るい前向きな心ほどもろいものはない」ということに気がつかれた。

私もそう思います!本当に心病んでいる人は言います。「この教えのもとにあなたは救われる」と言ったら強迫観念を持つと、なぜそこまで私を責めるのか・・・、と。

大丈夫といってもいけない。できるといってもいけない。そうではなくて、その悲しみと一体になることが大事なのです。つらい、悲しいというとき、「そうだね」って、「わかる、私もつらい、悲しいよ」と。

「死にたい」と言ったとき、「死んじゃいけない」と言ってはいけないのです。「死にたくなるね、私もそう思う」って。これが、悲しみの人を癒すうえで非常に大事なことなのです。私はそういう悲しみを持つ人といつも話しをしております。その人は言います「先生!悟りを押しつけないで下さい、心から悲しみを理解できる先生であってほしい。」素晴らしい言葉ですね‥私はこの言葉を自らの戒めとしたいものです。

その次に帯津先生は、「明るく前向きな心が病気を改善するのではなく、病状が改善されたから人は明るく前向きにふるまうようになる。ならば人間の本質、本性とは何か・・・」と述べています。なかなか帯津先生いいところをついていますね。さすがこの会の会長だと思います。

帯津先生が到達した結論は、「人間の本性とは悲しみである」ということです。素晴らしい!

いかがですか・・・、すなわち「矛盾」、「闇」のことです。このことは、仏陀の言葉にもあります。「生きるとは、苦である」と・・・。

「私はそんなことない!」とおっしゃる方もおられるかもしれませんが、そこからが本当の出発があるのです。よくその苦の本質を考えてみてください。「苦しみ、闇ははたして悪いものだろうか」と。「苦しみ」や「闇」は本当の光を、幸せを欲しがります。その幸せとは、片手間な幸せ、簡単に手に入る幸せ、とは考えません、なぜならそれらを得ても心は癒されません。そういうところから、「いいか悪いか」ではなく、「何が正しいのか」こういう問いかけが生まれてきます。

これが私の実体験です。
「どちらに転んでも大丈夫な世界はないのか」という問いかけも実はこのところです。たとえ苦にあろうとも楽にあろうとも、変わらない何かがないのか!と。

『 暗闇が光明を知り、苦悩が慈悲を触発する 』という言葉があります闇の中にいるから光(智慧)がほしくなるのです、悲しみを知ってはじめて悲しみ(慈悲)となるのです。その段階が、必ずあらわれてきます。真実の愛には、「悲しみ、苦しみ」がどうしても必要なのです。

さらに帯津先生は、二人の先生方の言葉を紹介しています。一人は、水上勉さんの言葉です。「それは私たちが孤独なる旅人であるからである。虚空からの長い旅の果てにただひとりこの地球に降り立ち、何十年間をすごしたのちまたひとり虚空に帰っていく旅人の悲しみだ」と。

私たちは、「私が」という思いを持った時はじめてみんなとは違うという一個の「個」の確立を持ちます。これも大事なことなのですが、個の確立から私たちは必ず他に対して違和感を覚えます。

西田幾多郎も言っています。「私たちはこの宇宙から切り離された一個の存在だと思ったとたんに不安が起こる、しかしこの不安はその人がすでに現実の不安を超えて何か高いものに触れている事を示す」と。なぜでしよう!?その苦しみは解放されたいという事実に根ざしているから・・・。そして“松かげの暗きは月の光かな”で、その苦しみから本当の姿を見たいという歩みがはじまるということを示唆しています。

もうひとつ、藤原新也さんの「すべての人の抱いている悲しみには他者をいやす力がある。なぜならば悲しみには必ず己の心を犠牲にして他者への深い思いやりがあるからだ」という言葉を紹介されています。みな良い言葉です。

ただ問題は漠然と、わかるのではなく、本質からわかるかどうかにあります。先ほど申しましたように、どうしても一回は大海に入らなければいけません。波の存在として他に対する思いやりはお節介になり怒りを生むのですが、大海を知ったときそこに、「自己犠牲」なるものがはじまります。たとえそのことにおいて自分が裏切られても問題とはならないのです。

石につまずいて、それは足が悪い、手は大地に打ちつけられて傷つく、しかしその血したたる手を持ってどうして痛めた足を手当てするのか、と。これが一体ということです。足と手は別物ではない私という「一体の力」なのです。

もし一体の力が宇宙をわがものとした時、全宇宙に対してその力が発揮できるのです。これが「同体の悲心」ということです。

サトルエネルギー学会ですから、サトルということを深く掘り下げてください。

一人ではなかなかできにくいことも、みんなでやればできます。正しい目標に向かって、それをわがものとして自らの命の深いところを開発していってください。そうしたら同じ大海に至るはずです。

私もあなたも同じだ、すべては同じだ。そこからもう一度波に帰らなければいけません。この作業はしなければいけません。

「転迷開悟」、迷いを転じて悟りとなす・・・。

迷いは捨てるものではありません。忌み嫌ってすてるものではありません。

ベートーベンも言う「苦悩を突き抜けて歓喜を!!」と。

この言葉を最後に味わって終わりにいたします。

有難う御座いました。