道交会の変遷

文責 高田昭一郎

2012(平成24)年10月8日太極道交会の創立三十年を記念する会合が持たれた。会場は東急東横線・綱島駅近くの「ザ・ニューオークラ」宴会場。二十三名の出席者の中には幸いにも会が生まれた当時を知る、古くからの人たちの顔ぶれも何人も見られ、その口から発足当時の貴重な思い出話が語られた。
この小文はそれらを拾い集めた記録である。なお、当日の出席者は次の通り(敬称略)。
山口博永、中川普元、川端治子
伊藤千寿、伊東美智子、伊東博子、岩井香楠子、荻原中和、記原テル子、斉藤自照、杉山初子、住野和子、高田昭一郎、小暮伊都子、永井大覚、
仲山玄沖、福井大介、藤井慈光、本谷晶子、益田博、三浦方圓、森藤清子、湯沢有子(以上アイウエオ順)
「慧叢林」から「太極道交会へ」
現在の太極道交会はその前身を「慧叢林」と称した。発足は1979(昭和54)年5月である。
1987(昭和62)年11月11日、横浜(慧叢林)、東京、館山の3道交会が合同して太極道交会が発足。翌1988(昭和63)年には、館山・能忍寺の本堂が完成、その時太極道交会の教本も作成されている。
「慧叢林」発足時、会の母体となったのはヨガの会である。横浜の産経学園(カルチャーセンター)のヨガ教室の指導員、野中淑子さんから、一度太極拳を体験してみてはと提案された。野中さんの友人の荻原中和(旧姓斎藤)さんを介して山口博永先生を招いて、東急東横線東白楽駅前の公園で、5~60人が参加して博永先生の太極拳を見学した。
初めは一度だけということだったが、太極拳の動きの美しさ、力強さに魅せられて、この後も続けたいという声が多く、定期的な練習会が実現した。
東白楽公園での練習会は数回で、次いで鶴見の総持寺の境内に移った。
総持寺ではだんだん参加者が増え、練習の初めに行っていた「練功十八法」の音量が、人数に比例して大きくなり、日曜日なので檀家の法事なども多く、寺に迷惑をかけるというので、会場の移転を余儀なくされた。
次はJR横浜線の大口駅からほど近い神之木台の「神奈川県青少年センター」の柔道場が毎月第2、第4日曜の午前中借りられることになり、以後天候に左右されず、腰を据えて練習できるようになった。1982(昭和56)年3月頃のことである。
会がスタートして暫くして、博永先生からもう一段高みを目指すためには坐禅も修した方が良いと提案があり、太極拳の練習日前夜、川端さん宅で坐禅会も始められた。
このころになると人数も増え、会のルールづくりの必要性が高まった。当時運営の中心的立場にあった川端勉さんの主導で、名簿作成など会の将来を見通した細かいシステムが出来上がった。
会員カードが発行され、毎回柔道場入口の受付にこのカードを提示、出席印が押される。全会員の名簿兼出席簿が置いてあり、これにも出席がチェックされる。このころ登録会員は七十名を越していた。練習日には五十人前後の参加者があった。五十畳敷きの柔道場が狭く感じられ、手を横に伸ばすと、隣の人にぶつかりそうになった。
博永先生は練習中、毎回のように虚実分明、上虚下実・立身中正・虚領頂頚・沈肩墜肘・剛柔相済など太極拳の基本を示す言葉を繰り返した。
十代、二十代の女性が圧倒的に多く、男性会員は三分の一にも満たなかった。今振り返ると、一番賑やかな時代といえなくもない。
神之木台に移って2年目の昭和1982(昭和57)年秋、慧叢林発足満3年目の記念行事として、二泊三日の合宿練習を行った。場所は信州志賀高原石打スキー場。参加者は東急東横線田園調布駅前に夕刻集合し、貸し切りバスを仕立てて出発した。目的地には翌朝午前三時ごろ着、民宿で仮眠をとって七時から早朝練習を行った。
この年の夏ごろから、これまでの簡化三十二式を一通り終え、次は陳小旺老師制定による三十八式の練習が始まっていた。三十八式は新架式の套路がベースになって組み立てられているので、それまでの小架の三十二式に比べて動きが複雑かつ微妙で掴まえ所がなく覚えにくい。信州合宿はこの三十八式の習得に打ち込んだ。
この信州合宿が恒例となって、以後は毎年秋に旅行合宿が行われるようになった。翌年の第二回は軽井沢の日月庵(港区正源寺の別坊)で、第三回は日光・修禅寺湖畔と続く。さらに群馬県榛名湖畔と伊香保温泉、栃木県那須高原など。合宿は練習と温泉が抱き合わせの傾向がある。
秋の旅行合宿のほかに、毎年五月の大型連休には博永先生の住まいのあった館山市・安房自然休暇村での合宿も恒例行事であった。
第三回の日光合宿には、すでに活動していた東京の太極道交会の主要メンバーが参加した。以後合宿は横浜・東京の合同で行われるようになる。
中国の「改革開放」政策により、外国人の中国訪問ができるようになり、1979(昭和54)年訪中した博永先生は、河南省鄭州市において陳小旺先生の表演に初めて接した。1981(昭和56)年には国内の太極拳愛好家たちが太極拳発祥の地、河南省温県陳家溝村を訪れた。 この時の様子が撮影された8ミリフィルムに記録されている。そこには日本人一行を荷台に乗せて農道を走るトラックの前後を大勢の村人や子供が取り囲んで騒いでいるシーンや村の恐らく達人といわれる老人男女の表演が映っている。一昔前までの太極拳の故郷は、まだ貧しく、素朴でどこか懐かしい農村風景である。
1982(昭和57)年に「日本陳式太極拳普及協会」が結成され、博永先生もメンバーに加入。博永先生は2年おきくらいの頻度で訪中し、陳氏太極拳十
八世伝人の陳小旺老師から新架八十三式の伝授を受ける。以後30数年に及ぶ陳老師と博永先生の師弟関係が始まる。
「日本陳式太極拳普及協会」との縁で1985(昭和60)年新宿スポーツセンター別館で東京太極道交会の練習が始まった。
慧叢林が発足して9年が経過した1988(昭和63)年、館山・能忍寺の本堂が完成した。本堂の一階「三昧堂」に慧叢林改め、「太極道交会」の本部が置
かれた。
太極道交会の基本精神・教義を述べた教本が完成し、仏法の象徴である法輪の中心に陰陽の太極マークを合体させた太極道交会の会章も制定された。
教本は巻頭に「一即一切、一切即一」「天上天下唯我独尊」の佛陀の偈が置かれ、道交会の理念、信心銘、加えて陳家溝の先達陳鑫による「陳氏太極拳図解」より太極拳の心得、五層の功夫などが盛り込まれている。
この間、横浜の練習会は三十八式を終え、陳氏太極拳新架八十三式が始まり、途中から同老架七十六式を集中的に行われるようになった。
能忍寺本堂の落成直後、真新しい三昧堂に、横浜慧叢林と東京太極道交会が一堂に会し東京・横浜合流一体化が実現した。
この時をもって横浜東白楽に始まった慧叢林時代から太極道交会としての新時代が始まった。