物我両忘

不動明王 玄賓菴

山口 博永 

 

剣禅一如

山口博永道長 太極拳 世間で云われる剣禅一如という言葉があります。 しかしこの言葉の意味を正しく理解する人は少なく、多くは誤解から自己満足に陥ったり、何にでもくっつけられる禅に対して嫌悪感を持つ人も見受けられます。
それは習い事としての 拳、剣、茶、華 … 等、は人から離れて、文化やあるいは武術として単独に有るかのように誤解をするからであります。
それらは人間を離れて外に一人歩きをする訳でもなく、また人にくっついてあるのでもありません。
正しく云えば、人が拳をやる時拳が人、人が拳であるのです。 拳、と言うはその理を指し示す名称で理を実践する人がいてこそ理が現れるのであり、人がいなければ理は現れようがないものなのです。

また、これら理には深浅がある事も知っておかねばなりません。
如何なる習い事にも段階があって形ある法則(理)から形無き法則へと進んでまいります。 さらにその先へと進むと必ず自分自身が問われてまいります.
この自分を見据える段階から:道: ( 剣道、華道…等の道の意 ) と言い、自分を学ぶことから禅と云うのです。禅とは自分を学ぶと云うことです。
太極拳
太極拳で説明しますと ー 《 有形に始まり無形に到り、無形は心機に入り、その妙界から遂に無心に帰して初めて拳という 》 ー 初心者の習い事の入り口には、習い方を示す意味で色々な名称や説明が無くてはなりませんが、後には名称を離れて師にしたがって形にはまらねばなりません。この段階は未だ理には馴染めず師の形を追いかけるのが精一杯の段階です。そこから時間をかけて形を習得して自分のものとして行きます。
山口博永道長しかし、多くの人達はこの形の熟練までで、その先の無形に行く人は稀です。
それは趣味程度の心掛けではその先に行けるものではないからです。何故ならその先は練習時間を増やし外面から内面へ、人の目を気にする目から自身を観る目が必要となるからです。
( 宮本武蔵の五輪書に見の目から観の目と解かれてあります ) 習いごとの熟練から、自分を問う学びが始まるのですが、ほとんどの人達はその理解すら出来ず、また形の習いごとだけでは気力が萎えてマンネリと化し、ついに止めてしまいます。
例えば富士山を登るにしても登山口はいろいろです。
しかし、趣味程度の登山ではどの道を通っても途中の景色に見とれ、よそ見をし
しまいます。それではその先に行く事は出来ません。そのうち景色にも飽きてしま
い、自分の居場所すら分からなくなって止めてしまいます。趣味の限界です ー 外の景色よりも頂上を目指す喜びとその決心が必要となるのです。
ではその先とは、 ー 形の熟練から形は気にならなくなって、・やる・自分自身も少しずつ問われてくるのです。
そして、さらにやる気を出して先の理に自身を摺り込んでいかねばなりません。
ー 登山で云うならば、頂上に至る魅力から外の景色は気にならなくなって頂上を目指す標識を見つけて、迷いなく力強く一歩を踏み出す段階です ー 更なる熟練からゴツゴツとした個体的な形が、気の体となり、吹く風、流れる水の如く ( 一気貫通 ) に自在となり、自身を観る観察眼が深まります。 … 自己満足が終わって、自己表現となるのです。その先には自分自身も取り込まれていく無心の世界、自己実現があります。いよいよ頂上を仰ぎ見て標識も必要としない五合目に到達したのです。
自己実現
山口博永道長 ある時、私は書道家の方に 『 冬、梅の木を見ながら梅と書く字と、春、梅を見て梅と書いた梅の字の形は異なりますか? 』 と聞いたところ、少し間をおいて 『 変わります 』 と仰いました。
それで私はその方に弟子入りをしたのです。
 
又ある時、禅の話しの流れから手段と目的の合致を意として生意気にも、私は師に向かって 『 書家から筆を取り上げると何が残りますか?』 と聞いた事があります。このときは間をおかずに 『 何も残りません 』 と正直に仰いました … この問答には有形から無形、そして自分自身をその法則 ( 手段 ) に摺り込んでしまう世界、禅が目指す無我の我(自他一如)を問うているのです。
禅の道とは、自分の内面を調えながら : 天地いっぱいの自己実現 : まで行くその歩みを云うのです。
その為には学びの極意とする法を学ばねばなりません。
山口博永道長それは、森羅万象と同化する法則 ( 自他一如 ) であり、ゆえにその法は自身の自我意識をきらいます。道の歩みを止める一番の障害物が自身の分別、自我にあります。
ここに気づいた時から禅的となるのです。禅はこの障害物を消滅させる法を説きます。
 
ー禅的生活ー
人は意識において何をするか、したいかを決定します。
だいじな事は、学びの初めにあっては拳も禅もそれは手段であり、その先に目的があります。
又その手段を用いる前に何故という動機があるはずで、この動機のもとに手段を選び目的を達成しようとするのです。
山口博永道長この三段階は、熟練の暁には一つになるのですが、学びの入り口では、三つをしっかりと吟味せねばなりません。 例えば、どのような立派な弓矢が有っても的が無いと何の役にも立たず、その反対も然りで … また弓矢と的があっても射手がいないとこれまた弓矢も的も無に等しいのです。 問題は、的 ( 目的 ) と弓矢 ( 手段 ) 、それを射抜く射手 ( 動機 ) が無くては何事も始まらないということです。
さて、ここにもう一つ非常に大切な事柄があります。これが禅的生活の一歩であり、この理解がなければすべての行為は自己満足で終わり、結局は何の成果も解決も無く、虚しく終わるでしょう … 。
それは行為の動機に対して ー 何の為に ー !! と、更にその背後を正さなくてはなりません。
禅門では … 発心 ( 動機 ) が正しくなければ 、どんなに頑張ったところですべては虚しく終わるぞ! … と注意を促します。
例えば以前こんなことが有りました。私に太極拳を学びたいと云う若者に 『 何故太極拳を学びたいのですか 』 と聞くと 『 強くなりたいからです 』 という … 動機は強くなりたいのです …さて、ここなのです … 『 何故強くなりたいのですか 』 と問うと、返事がありません。 ー  自分の弱さがみえていない! ー
又その人がもし 『 弱いから 』 と云うなら、 『 あなたのどこが弱いのですか 』と問うたでしよう … やはりはっきりとした返事は無いはずです。
結局は漠然と自分を弱い者とみて、これもまた漠然とただ強くなりたかったのです。 ( この漠然を趣味程度と申します ) 世間一般ではそれで入門は許されるでしょうが、禅の生活ではそれを許しません。
何故ならば、強さを求める事ではなく、問題は、自分自身の弱さを知ることであって、あくまでも思いつきの動機で善しとすることなく、深く背後に更なる原因を追究せねばなりません、… 素人は悟りに迷うが玄人は迷いを悟るのです …
正しくは、問題は問題ではなく、問題にしている自分が問題なのです … 禅的生活では、全ての行為は自分を学ぶための暗示とせねばなりません。
そうなのです、何をやるにも やる人の意識が問われ、正し、深めねばなりません。
ー問題意識を正すとは何かー 理
山口博永道長 私たちは人間であり、生きるとは、自己の自由を獲得する事です。人は、束縛を不幸というのです。
… ところで人間の正義は人間世界のみに通用して動物界には通じません、何故ならば私たちは動物を食して生きているからです。
では植物界はどうでしょう … 。
同じく人間、動物の生命維持の対象です … 破壊者の中に、真の自由はありません!
さらに人間、動物、植物から、生命世界に広げた価値観を正すことで、地球環境問題からいっても、人類にとって如何に大切な事柄で有るかは十分に理解できます。
しかし、その生命世界は空気、水、大地、太陽 等 … の存在世界の恩恵を受けていて、そのうち一つでも欠けると一瞬にして全ての生命は消滅してしまいます。
条件つきの自由は真の自由とは申せません 。
人類の要求は有史以来、永遠に安らぎたい全てから自由でありたいと願っているのです ー しかも無条件に ー 何か一つでも条件つきの束縛があれば心から安らげないのです 。
そこで、問題意識を正すとは!
それは自らの平安を得るために、より普遍的な単位である、存在を問わねばなりません!
その価値観を深めねばなりません  … より普遍的に、更に普遍的に、存在を許す時空間までをも含めて解決しなければなりません!
私は誰か!
一切はこれ何物か!これが禅の問いかけなのです。
一切に共通する価値観を見いださなければ真の平安は訪れないのです 。
それを、別の言葉で表現しますと … 多様性の中に単一性を見いだせ! … となります。
この問いかけとその答えこそが究極の問答であり、人類永遠の謎でもあるのです。
禅は … 一即一切、一切即一 … と答えます。
矛盾 ( 多様性 ) を統一 ( 単一性 ) する法にこそ一切の平安が達成できる!と暗示をするのです 。
ー問題意識を正すとは何かー実践
山口博永道長 拳禅一如とは、精神を統一する 《 禅 》 、その方法 《 拳、剣、茶、花、柔 》 により、それを獲得しようと試みるのです …
これをみても拳禅一如とは、その理と実践のもとにそれを表現し、実現するのは自分であり自分以外の問題ではないのです ー 自己を学び、自己の人格を完成するためにそれらの習い事が有ることを理解した者が拳禅一如の意味を理解する者なのです。
禅的生活を定義するならば  ー 今ここに、動機を正し 心の統一を実践しながら、
自らの中にその回答を得てゆく ー  というものとなるでしょうか … 。
禅の方便的生活においては心身の健康など、自分に利益することが上げられますが、あくまでもそれは方便であり条件つきであります、真実の自由においては 生死を超越して不生不滅に遊ぶものでなくてはなりません。
山口博永道長けっして大げさな事ではありません。
禅はそれを解き明かします。
太極拳もその熟練において、太極の気象に入ればわかります
《 太極の気象を禅では一指頭の消息と申します 》 。
 
太極拳は一般に武術であると単純に考えがちですが、そうではなくそれは時代の要求にしたがって、理の用い方による表現の異なりにしかすぎません。
太極拳の愛好家でもある科学者 F・カプラは太極拳を評して、宇宙の運動 《 量子運動 ( 著書・タオ自然学 ) 》 と表現しますが、一番的確な表現ではないでしょうか。
要するに全ての習い事の理の深浅のその用い方によってその人の真価が問われるということです。理は人・・・人は理を学び修して、本来世界に帰りたがっているのです。

山口博永 道長 一燈禅林にて
山口博永 道長 一燈禅林にて

 
 
 
 
 
 
文章は、karna 2009 年 1月号に掲載