第21章 練拳

自叙伝 練拳それはさておき、劉大師の本物として魅力は捨て難く私も大いにやる気になって、その日、部屋に帰った後、これから朝は楊式太極拳を、夜は陳家太極拳を学ぼうと自分なりに計画を立てました。そして、今までとは何かが違う修行の予感に、出家前夜に思いを馳せ、あの時なにかを残したくて、自分の志しを部屋の壁に 《 我、志しを立てて郷関を出ず、修行もし成らずんば死すとも帰らず 》と書き残した言葉など思い出し、新たにこれから始まる期待感とだぶってその夜は一睡もできませんでした。


自叙伝 練拳次の日の朝、劉大師の高弟で、後に私の太極拳の師となる徐紀老師にお会いしました。その席で、私達の希望である陳家太極拳を学びたい旨をお伝えいたしました。そこで徐老師は武壇における拳の学び方の図式を見せて、説明をして下さいました。


自叙伝 練拳それによると、《中国人、日本人関係なく、基本をみっちりやった後、その基本の出来具合からその人の素質に合わせて、何を教えるかは武壇側で決める!》というものでした。その意味するところは、もし基本をやっても太極拳の素質がなければ別の拳を教えるが、本人が希望しても太極拳は教えないということになります。


自叙伝 練拳ーさすがは武壇! 格式が高すぎて緊張が走る … 内心、そんなに高級な太極拳なのか…と半信半疑で、側にいた通訳に、不謹慎ではあったが、ついからかい気味に『ならばその高級な太極拳を少しでも良いから、今見せて貰えないですかねぇ』と言うと、通訳はきっちりと徐老師に伝えたようで、徐老師は ー 『好了』というなり、いきなり立ち上がって、私の目の前で始まった!


自叙伝 練拳ーうねった! ー嵐か!
稲妻のように拳が打ち下ろされた!
ー唸った!原始の風が!


自叙伝 練拳我が目を疑った、なんという … 絶句した … これが本物の太極拳なのか、 ー たしかに見た!その柔らかさの中に、品格までも備えた美と人間技を超える鞭のような切れ味 ー これが陳家太極拳なのか ー やる!
基本でもなんでも本気でやるー またしても取り付かれてしまった。


自叙伝 練拳…それほどに魅力的であった!さすがは劉大師の高弟徐老師であった…。
改めてこれからのご指導を切にお願いをして帰宅いたしました。そして次の日から始まった基本が単腿十二路 ー しかしそれを実際八ヶ月もやることになるとは思ってもみませんでした。後々それが良かった!それなくしては、今の成果は有り得なかったかも。


自叙伝 練拳単腿を学んで三か月が過ぎた頃、私の単腿の師である黄偉哲老師から、『 明日は劉大師が来られるから頑張れ! 』と言われました、


自叙伝 練拳えっ劉大師が見て下さるのか!と内心動揺した… 次の日、劉大師はいつもの優しい表情で椅子に腰を掛け、足を組み合わせ、手はお腹の前に置く独特なポーズで、気楽にやれやれといわんばかりに手を振って下さり、おかげですこし緊張から解放されて張り切って演武を始めました。


自叙伝 練拳その当時武壇の初心者用?の道場は狭く十坪ぐらいであったか? … 私が一路の表裏を終えた時には道場入り口に達しており、残りの表の動作は外の道路でやって収勢、その流れから次の二路の起式も外でやり、そのまま道場に入って来るといった具合でありましたー が?


自叙伝 練拳ふと気付いた事に、私が演武をしながら劉大師の側まで行くと腰掛けながらも劉大師は自然に手と足をサッと組み替えられる ー 次の三路の時、私もそれを気にしながら近づくと、やっぱりある間合いに入ると、サッと手足を組み替えられるー。


自叙伝 練拳確か以前にも同じ事があった …あの時、劉大師を囲んで私達の歓迎会を催して頂いた席で、私がビール瓶を持って席を立つとその瞬間、劉大師は私を押し止める勢いで『山口は何をしているか!!』 とたしなめられた。


自叙伝 練拳その時通訳の李さんが得意気に 『これは日本人の習慣で目上の人に感謝の意味を込めてお酌をするのです、劉大師!受けて上げて下さい 』と説明をして頂いたので私も気楽に、テイブルを半周してお酌をしに行きました。
ーところがお酌をしようとしたその時、一瞬緊張が走った…。
それは最初に武壇でお会いして握手をして下さった時と同じで息詰まるものを感じた ー 後でそのお酌の瞬間を撮った写真を見て分かった!
ー劉大師のコップを持つ右手とその反対の左手が!… そして私を見据えたその目線に! … 些かゾッとした! 危ない!
ーそうだったのか!
自叙伝 練拳最初にお会いした時のステッキも、お酌を受けていただいた時のあの手も、そして何の気なしに組み替えられる脚にも。
もし私がその気になって劉大師に打ち込んでいたら … 一瞬にして倒されたでしょう ー しかも象牙の指輪で固めたあの拳で!


そういえば、武壇の向かいに住んでおられる黄義男先生が言っておられた。
ー 義男先生の人柄は、実にひょうきん者で男気があって誠実で、日本びいきで高倉健さんのファンである人、といえば分かりやすいでしょうか。
自叙伝 練拳その義男先生が流暢な日本語で私に話されるには、 ー ある日、隣に中国大陸から引っ越してきた武術家がいると聞いたが、私は日本の剣道が好きで別に気にもかけず毎日家の外で素振りをしていた。ある日向かい側の入り口の扉が開いていたが気にもせず素振りをしていたら、その扉の中から手招きする人がいて何事かと思って行ってみると、老人が一人横柄に椅子に腰掛けていた。
私はとっさに ハハー!大陸から来た自称武術家とはこの人か と思ったが、何とも態度がでっかい、それに言うことか!木剣を指差して打ってこいという、ちょっと頭にきて隙あらばと狙ったが、相手は動かない!こいつッと思って打ち込もうとした瞬間、― どうなったと思う ―!
横に置いてあった杖が私の鼻ッ先(指差して)にあった‥! ー
驚いたねぇ‥本当だよー! と目を丸くして話して下さった。
勿論それを機に弟子入りした事は言うまでもありませんが、それ以来喧嘩に負けた事がないそうで、喧嘩の仕方まで教わった?懐かしい思い出です。
そういえば、私がいろいろお世話になったので、「今度日本からのお土産、何がいいですか?」と聞くと‥すかさず、雪駄と云う … それでも日本びいきは顕在だったようです。
自叙伝 練拳それにしても恐るべし! ー  百戦錬磨の武術家だ!その真骨頂を私も見た!
又ある時 私の演武を見て頂き、終わって黄老師が劉大師の手前からか、苦笑いをして 『 とにかく山口の演武は穏やか過ぎる! 』と小言を言ったのに対して、劉大師は笑われながら『 それで良い それで良い!山口は和尚だからそれで良いのだ!』 と評価して下さり続けてー
『 中国武術とは何かわかるか山口!一つは心身の鍛錬 二つは 芸術 三つに護身術だ、よいか!その中でも一番大事なのは一番目の心身の鍛錬である 後は芸術性、そして小さな意味で護身術と続く』と言って頂き、私は我が意を得たりで嬉しくなりました。
又この様な事も言われました 『 武術になぜ芸術性が大事なのか分かるか! 人に見せる為ではなく!正しい動作は美しいのだ 』 … と 私は感じ入ってしまいました。そして続けて『将来お前が道場を持った暁には、私が書を書いてやる!』(1988年道場設立の折り約束通り、劉大師より二幅の掛け軸を賜りました) とまで言って頂き、感激致しました。
自叙伝 練拳劉大師は私が当初から一途に太極拳を求めている事を良く理解して下さっておられました。しかしその後徐老師がアメリカに渡られた後、『もしお前が八卦掌をやるなら私が教える』と八卦掌を勧めて下さいましたが、敢えてご辞退申し上げて、太極拳を求めて大陸に渡る決心を致しました。
【確かに … 私の求める太極拳は一般的に云う武術ではない、もし私の武術性を問うならば、 敵は … この世の 無常 であり、それに勝利した暁には、この宇宙を征服する ー というものです 。目先の強さを求めて、勝ち負けにこだわる人間には想像もつかないでしょうが… 】
近年 太極拳は確かに武術として発展をし今日においてもその武術性はしっかり受け継がれております。それだからといって太極拳は即武術だという言い方は一面観であり、正しくはありません、また武術だと言ってもその正しい武術観を知らなければならない。以前私の寺に柔道の山下の弟弟子であるという東海大の学生さんが来ました。
その人が云うには『何故今の柔道には道というものが無くなってしまったのでしようか』と私は『それはしようがない、今の武道は競技であって命を懸ける必要がない、それは子供の遊戯「花一匁」と同じだから! … 勝ってうれしい~ 負けて悔しい~ でしょう!そういう武術観だから武の道は無くなってしまったのです』と答えました。
自叙伝 練拳本当の武術観は生死問題を抜きにしてはありません。
生き死にからの解放が問われるのです!相手と対した時、もしかして自分は殺されるかも知れないなどの恐怖に襲われると、どんな達人でも体が硬直して動けないものです、ですから本当の武術というのはやはり自分との戦いであるのです。剣の切っ先を喉下に突きつけられながらも凜として居れるかが問われるのです。
しかし今日考えられる武術は、後に怨念を残し … あん畜生こん畜生と畜生の戦いとなっている。それでは決して武の道とは申せません。武術と云うなら、対する相手を殺さねばならない!何故なら殺されるから … そこまで真剣に考えて、私は武術をやっていると云えるかが問われなくてはなりません。そして生き死にを超える鍛錬をしなければ相手と対することなど不可能である。人の一番の弱みは死苦にあります。
正しい武術観はその死の超越を解く訳ですから、だから武術も又正しく人の人格を完成する道と成るのです。
劉大師が申された《武術は一に心身の鍛錬にある!》の武術観の真意もここにあるのです。
自叙伝 練拳剣豪、山岡鉄舟居士は、ここのところを、《 晴れてよし 曇りてもよし 》と 勝ち負けのなかに人生の真実は見いだせないぞという、人生の本質からいって問題にならないという、 … さぁよく見ろ! … 《 富士の山 もとの姿は 変わらざりけり 》と仰るのです。


自叙伝 練拳特に太極拳は他の拳法とは異なり、科学者 F.カプラの云う ー 量子運動(著書 タオ 自然学)即>ち、太極拳は宇宙の運動の法則である ー と言うのが一番的確な表現ではないでしょうか。】